貨ばかりの財布を振って見せた。関さんもやっぱり持っていなかった。いく度か躊躇《ちゅうちょ》したが、思い切って最後に校長に話した。校長は貸してくれた。昨日の朝、行田から送って来る新聞の中に交って、見なれぬ男の筆跡《ひっせき》で、中田の消印のおしてある一通の封書のはいっていたのを誰も知らなかった。
 午後から行田の家に行くとて出かけたかれは、今泉にはいる前の路から右に折れて、森から田圃《たんぼ》の中を歩いて行った。しばらくして利根川の土手にあがる松原の中にその古い中折《なかおれ》の帽子が見えた。大高島に渡る渡船《わたし》の中にかれはいた。

       三十四

 渡良瀬川の渡しをかれはすくなくとも月に二回は渡った。秋はしだいにたけて、楢《なら》の林の葉はバラバラと散った。虫の鳴いた蘆原《あしはら》も枯れて、白の薄《すすき》の穂が銀《しろがね》のように日影に光る。洲《す》のあらわれた河原には白い鷺《さぎ》がおりて、納戸色《なんどいろ》になった水には寒い風が吹きわたった。
 麦倉《むぎくら》の婆の茶店にももう縁台は出ておらなかった。栃《とち》の黄《き》ばんだ葉は小屋の屋根を埋めるばかりに散《ち》り積《つ》もった。農家の庭に忙しかった唐箕《とうみ》の音の絶えるころには、土手を渡る風はもう寒かった。
 その長い路《みち》を歩く度数は、女に対する愛情の複雑してくる度数であった。追憶《おもいで》がだんだんと多くなってきた、帰りを雨に降られて本郷の村落のとっつきの百姓家にその晴れ間《ま》を待ったこともある。夜遅く栗橋に出て大越の土手を終夜歩いて帰って来たこともある。女の心の解《げ》しがたいのに懊悩《おうのう》したことも一度や二度ではなかった。遊廓にあがるものの初めて感ずる嫉妬《しっと》、女が回しを取る時の不愉快にもやがてでっくわした。待っても待っても、女はやって来ない。自己の愛する女を他人が自由にしている。全身を自己に捧げていると女は称しながら、それがはたしてそうであるか否かのわからない疑惑――男が女に対するすべての疑惑をだんだん意識してきた。女はまた女で、その男の疑惑につれて、時々容易に示さない深い情《なさけ》を見せて、男の心をたくみに奪った。「もうこれっきり行かん。あれらは男の機嫌をとるのを商売にしているんだ。あれらの心は幾様《いくよう》にも働くことができるようにできている。自分に対すると同じような媚《こび》と笑いと情《なさけ》とをすぐ隣の室で他の男に与えているのだ。忘れても行かん。忘れても行かん。今まで使った金が惜しい」などと、憤慨《ふんがい》して帰って来ることもあったが、しかしそれは複雑した心の状態を簡単に一時の理屈《りくつ》で解釈したもので、女の心にはもっとまじめなおもしろいところがあることがだんだんわかった。怒ったり泣いたり笑ったりしている間に、二人の間柄には、いろいろな色彩やら追憶《おもいで》が加わった。
 女のもとにせっせと通って来るなかに、清三の知っている客がすくなくとも三人はあった。一人は栗橋の船宿の息子《むすこ》で、家には相応に財産があるらしく、角帯に眼鏡をかけて鳥打ち帽などをかぶってよく来た。色の白い丈《たけ》のすらりとした好男子であった。一人は古河《こが》の裁判所の書記で、年はもう三十四五、家には女房も子供もあるのだが、根が道楽の酒好きで三日とかかずにやって来る。女はそのしつこいのに困りぬいて、「お客で来るのだからしかたがないけれど、ああいう人に勤めなけりゃならないと思うと、つくづくいやになってしまうよ。貴郎《あなた》、早くこういうところから出してくださいな」などと言って甘えた、そういう時には、「栗橋のにそう言って出してもらってやろうか」などと柄《がら》にもない口を清三はきいた。と、女はきまって、男の膝をぴしゃりと平手で打って、これほど思って苦労しているのにという紋切《もんき》り形《がた》の表情をしてみせた。それからいま一人|塚崎《つかざき》の金持ちの百姓の息子《むすこ》が通って来た。田舎の女郎屋のこととて、室のつくりも完全していないので、落ち合うとその様子がよくわかる。その息子《むすこ》は丸顔の坊ちゃん坊ちゃんした可愛い顔をしていた。「可愛いおとなしい人よ。なんだか弟のような気がしてしかたがない」と女はのろけた。
 そのほかにもまだあるらしかったが、よくわからなかった。鬚《ひげ》の生えた中年の男も来るようであった。清三は女の胸に誰が一番深く影を印しているかをさぐってみたが、どうもわからなかった。自分の影が一番深いようにも思われることもあれば、要するにうまくまるめられているのだと思うこともある。あの時、女はしみじみと泣いてそのあわれむべき境遇を語った。黒目がちな眼からは、涙がほろほろとこぼれた。清三はその時自己の境
前へ 次へ
全88ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング