田舎教師
田山花袋

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)青縞《あおじま》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)高等|尋常《じんじょう》小学校

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》が

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       一

 四里の道は長かった。その間に青縞《あおじま》の市《いち》のたつ羽生《はにゅう》の町があった。田圃《たんぼ》にはげんげが咲き、豪家《ごうか》の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出《けだ》しを出した田舎《いなか》の姐《ねえ》さんがおりおり通った。
 羽生からは車に乗った。母親が徹夜《てつや》して縫ってくれた木綿《もめん》の三紋《みつもん》の羽織に新調のメリンスの兵児帯《へこおび》、車夫は色のあせた毛布《けっとう》を袴《はかま》の上にかけて、梶棒《かじぼう》を上げた。なんとなく胸がおどった。
 清三《せいぞう》の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田《ぎょうだ》から熊谷《くまがや》まで三里の路《みち》を朝早く小倉《こくら》服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍《はべ》る芸妓《げいしゃ》なるものの嬌態《きょうたい》にも接すれば、平生《へいぜい》むずかしい顔をしている教員が銅鑼声《どらごえ》を張《は》り上げて調子はずれの唄《うた》をうたったのをも聞いた。一月《ひとつき》二月《ふたつき》とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。第一に、父母《ふぼ》からしてすでにそうである。それにまわりの人々の自分に対する言葉のうちにもそれが見える。つねに往来《おうらい》している友人の群れの空気もそれぞれに変わった。
 ふと思い出した。
 十日ほど前、親友の加藤郁治《かとういくじ》と熊谷から歩いて帰ってくる途中で、文学のことやら将来のことやら恋のことやらを話した。二人は一少女に対するある友人の関係についてまず語った。
「そうしてみると、先生なかなかご執心《しゅうしん》なんだねえ」
「ご執心以上さ!」と郁治は笑った。
「この間まではそんな様子が少しもなかったから、なんでもないと思っていたのさ、現にこの間も、『おおいに悟った』ッて言うから、ラヴのために一身上の希望を捨ててはつまらないと思って、それであきらめたのかと思ったら、正反対《せいはんたい》だッたんだね」
「そうさ」
「不思議だねえ」
「この間、手紙をよこして、『余も卿等《けいら》の余のラヴのために力を貸せしを謝す。余は初めて恋の物うきを知れり。しかして今はこのラヴの進み進まんを願へり、Physical なしに……』なんて言ってきたよ」
 この Physical なしにという言葉は、清三に一種の刺戟《しげき》を与えた。郁治も黙《だま》って歩いた。
 郁治は突然、
「僕には君、大秘密《だいひみつ》があるんだがね」
 その調子が軽かったので、
「僕にもあるさ!」
 と清三が笑って合わせた。
 調子抜けがして、二人はまた黙って歩いた。
 しばらくして、
「君はあの『尾花《おばな》』を知ってるね」
 郁治はこうたずねた。
「知ってるさ」
「君は先生にラヴができるかね」
「いや」と清三は笑って、「ラヴはできるかどうかしらんが、単に外形美《がいけいび》として見てることは見てるさ」
「Aのほうは?」
「そんな考えはない」
 郁治は躊躇《ちゅうちょ》しながら、「じゃ Art は?」
 清三の胸は少しくおどった。「そうさね、機会が来ればどうなるかわからんけれど……今のところでは、まだそんなことを考えていないね」こう言いかけて急にはしゃいだ調子で、
「もし君が Art に行けば、……そうさな、僕はちょうど小畑《おばた》と Miss N とに対する関係のような考えで、君と Art に対するようになると思うね」
「じゃ僕はその方面に進むぞ」
 郁治は一歩を進めた。
 清三は今、車の上でその時のことを思い出した。心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》の尋常《じんじょう》でなかったことをも思い出した。そしてその夜日記帳に、「かれ、幸《さち》多《おお》かれ、願はくば幸多かれ、オヽ神よ、神よ、かの友の清きラヴ、美しき無邪気なるラヴに願はくば幸多からしめよ、涙多き汝《なんじ》の手をもって願はくば幸多からしめよ、神よ、願ふ、親しき、友のために
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