せはてた姿は、しずかに廊下をたどって行った。
 教室にはいってみた。ボールドには、授業の最後の時間に数学を教えた数字がそのままになっている。[#ここから横書き]12+15=27[#ここで横書き終わり]と書いてある。チョークもその時置いたままになっている。ここで生徒を相手に笑ったり怒ったり不愉快に思ったりしたことを清三は思い出した。東京に行く友だちをうらやみ、人しれぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるで他人でもあるかのようにはっきりと見える。色の白い、肉づきのいい、赤い長襦袢《ながじゅばん》を着た女も思い出された。
 オルガンが講堂の一隅《かたすみ》に塵埃《ちり》に白くなって置かれてあった。何か久しぶりで鳴らしてみようと思ったが、ただ思っただけで、手をくだす気になれなかった。
 やがて小使が帰って来た。かれもちょっと見ぬ間に、清三のいたく衰弱したのにびっくりした。
 じろじろと不気味《ぶきみ》そうに見て、
「どうも病気《あんべい》がよくねえかね?」
「どうもいかんから、近いところに転任したいと思っているよ……今度の学期にはもう来られないかもしれない。長い間、おなじみになったが、どうもしかたがない……」
「それまでには治るべいかな」
「どうもむずかしい――」
 清三は嘆息《ためいき》をした。
 小川屋にはもう娘はいなかった。この春、加須《かぞ》の荒物屋に嫁《かたづ》いて行った。おばあさんが茶を運んで来た。
 すぐ目につけて、
「林さんなア、どうかしたかね」
「どうも病気が治らなくって困る」
「それア困るだね」
 しみじみと同情したような言葉で言った。夕飯《ゆうめし》は粥《かゆ》にしてもらって、久しぶりでさい[#「さい」に傍点]の煮つけを取って食った。庭には鶏頭《けいとう》が夕日に赤かった。かれは柱によりかかりながら野を過ぎて行く色ある夕べの雲を見た。

       五十八

 転任については、郁治《いくじ》も来て運動してくれた。町の高等も尋常《じんじょう》も聞いてみたが、欠員がなかった。弥勒の校長からは、「不本意ではあるが、病気なればしかたがない、いいように取り計らうから安心したまえ」と言って来た。けれど他から見ては、もう教員ができるような体《からだ》ではなかった。
 ある日、荻生さんが、母親に、
「どうも今度の病気は用心しないといけないって医師《いしゃ》が言いました
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