もらって立ち食いをしたり、よせ切れの集まった呉服屋の前に長い間立ってあれのこれのといじくり回したりした。大きな朱塗《しゅぬり》の獅子は町の若者にかつがれて、家から家へと悪魔をはらって騒がしくねり歩いた。清三が火鉢のそばにいると、そばの小路《こうじ》に、わいしょわいしょという騒がしい懸《か》け声がして、突然獅子がはいって来た。草鞋《わらじ》をはいた若者は、なんの会釈《えしゃく》もなく、そのままずかずかと畳の上にあがって、
「やあ!」
 と大きな獅子《しし》の口をあげて、そのまま勝手もとに出て行った。
 母親は紙に包んだおひねりを獅子の口に入れた。一人息子《ひとりむすこ》のために、悪魔を払いたまえ! と心に念じながら……。

       五十四

 母親は二階の床《とこ》の間に、燃《も》ゆるような撫子《なでしこ》と薄紫のあざみとまっ白なおかとらのおと黄《き》いろいこがねおぐるまとを交《ま》ぜて生《い》けた。時には窓のところにじっと立って、夕暮れの雲の色を見ていることもあった。そのやせた後ろ姿を清三は悲しいようなさびしいような心地でじっと見守った。
 父親は二階の格子《こうし》を取りはずしてくれた。光線は流るるように一室にみなぎりわたった。窓の下には足長蜂《あしながばち》が巣を醸《かも》してブンブン飛んでいた。大家《おおや》の庭樹《にわき》のかげには一本の若竹が伸びて、それに朝風夕風がたおやかに当たって通った。

       五十五

 五月六日には体量十二貫五百目、このごろ郵便局でかかってみると、単衣《ひとえ》のままで十貫六百目、荻生さんは十三貫三百目。
 ある日、田原ひで子が学校に来て手紙を小使に頼んでおいて行った。手紙の中には、手ずから折った黄いろい野菊の花が封じ込んであった。「野の菊は妾《わらわ》の愛する花、師の君よ、師の君よ、この花をうつくしと思ひたまはずや」と書いてあった。
 暑中休暇前一二日の出勤は、かれにとってことにつらかった。その初めの日は帰途《かえり》に驟雨《しゅうう》に会い、あとの一日は朝から雨が横さまに降った。かれは授業時間の間《あいだ》々を宿直室に休息せねばならぬほど困憊《こんぱい》していた。それに今月の月給だけでは、薬代、牛乳代などが払えぬので、校長に無理に頼んで三円だけつごうしてもらった。
 旅順|陥落《かんらく》の賭《かけ》に負けたから
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