たえ?」
「来週から出ることになった」
「それはよかったねえ」
 喜びの色が母親の顔にのぼった。
 それからそれへと話は続いた。校長さんはどういう人だの、やさしそうな人かどうかの、弥勒《みろく》という所はどんなところかの、下宿するよいところがあったかのと、いろいろなことを持ち出して母親は聞いた。清三はいちいちそれを話して聞かせた。
「お父《とっ》さんは?」
 しばらくして、清三がこうきいた。
「ちょっと下忍《しもおし》まで行ッて来るッて出かけて行ったよ。どうしても少しお銭《あし》をこしらえて来なくってはッてね……。雨が降るから、明日《あした》にしたらいいだろうと言ったんだけれど……」
 清三は黙ってしまった。貧しい自分の家のことがいまさらに頭脳《あたま》にくり返される。父親の働きのないことがはがゆいようにも思われるが、いっぽうにはまた、好人物《こうじんぶつ》で、善人で、人にだまされやすい弱い鈍い性質を持っていながら、贋物《にせもの》の書画《しょが》を人にはめることを職業にしているということにはなはだしく不快を感じた。正直なかれの心には、父親の職業は人間のすべき正業ではないようにつねに考えられているのである。
 だまされさえしなければ、今でも相応《そうおう》な呉服屋の店を持っていられたのである。こう思うと、何も知らぬ母親に対する同情とともに、正業でない職業とはいいながら、こうした雨の降る日に、わずか五十銭か一円の銭で、一里もあるところに出かけて行く老いた父親を気の毒に思った。
 やがて鉄瓶《てつびん》がチンチン音を立て始めた。
 母親は古い茶箪笥《ちゃだんす》から茶のはいった罐《かん》と急須《きゅうす》とを取った。茶はもう粉《こ》になっていた。火鉢の抽斗《ひきだ》しの紙袋には塩煎餅《しおせんべい》が二枚しか残っていなかった。
 清三は夕暮れ近くまで、母親の裁縫《しごと》するかたわらの暗い窓の下で、熊谷《くまがや》にいる同窓の友に手紙を書いたり、新聞を読んだりしていた。友の手紙には恋のことやら詩のことやら明星《みょうじょう》派の歌のことやら我ながら若々しいと思うようなことを罫紙《けいし》に二枚も三枚も書いた。
 四時ごろから雨ははれた。路はまだグシャグシャしている。父親が不成功で帰って来たので、家庭の空気がなんとなく重々しく、親子三人黙って夕飯を食《く》っていると、「ご
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