だことがある。その時は、そんなことがあるものかとよそごとに思ってすてた。けれどそれは事実であった。
家に帰ってみると、借金取りはあっちこっちから来ていた。母親がいちいち頭を下げて、それに応対しているさまは見るにしのびない。父親は勘定が取れぬので、日の暮れるころ、しょぼしょぼとしおたれた姿で帰って来る。「あゝあゝ、しかたがねえ!」と長大息《ためいき》をついて、予算の半分ほどもない財布を母に渡した。清三は見かねて、金をまた二円出した。
夜になってから、母親は巾着《きんちゃく》の残りの銭をじゃらじゃら音をさせながら、形《かたち》ばかりの年越しをするために町に買い物に行った。のし餅を三枚、ゴマメを一袋、鮭を五切れ、それに明日の煮染《にしめ》にする里芋を五合ほど風呂敷に包んで、重い重いと言ってやがて帰って来た。その間に父親は燈明を神棚《かみだな》と台所と便所とにつけて、火鉢には火をかっかっと起こしておいた。やがて年越しの膳《ぜん》はできる。
父親ははげた頭を下げて、しきりに神棚を拝んでいたが、やがて膳に向かって、「でも、まあ、こうして親子三人年越しのお膳に向かうのはめでたい」と言って、箸《はし》を取った。豆腐汁に鮭、ゴマメは生《なま》で二|疋《ひき》ずつお膳につけた。一室は明るかった。
母親は今夜中に仕立ててしまわねばならぬ裁縫物《しごと》があるので、遅くまでせっせと針を動かしていた。清三はそのそばで年賀状を十五枚ほど書いたが、最後に毎日つける日記帳を出して、ペンで書き出した。
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三十一日。
今歳《ことし》もまた暮れ行く。
思ひに思ひ乱れてこの三十四年も暮れ行かんとす。
思ふまじとすれど思はるるは、この年の暮れなり。
かくて最後の決心はなりぬ。
無言[#「無言」に丸傍点]、沈黙[#「沈黙」に丸傍点]、実行[#「実行」に丸傍点]。
われは運命に順《したが》ふの人ならざるべからず。とても、とても、かくてかかる世なれば、われはた多くは言はじ。
明星、新声来る。
ああ終《つい》に終に三十四年は過ぎ去りぬ。わが一生において多く忘るべからざる年なりしかな。
言はじ、言はじ、ただ思ひいたりし一つはこれよ、曰く、かかる世なり、一人言はで、一人思はむ。ああ。
[#ここで字下げ終わり]
かれは日記帳を閉じてそばにやって新着の明星を読み出した。
二十
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