から、すぐ眼の前に山の裾が落ちて來てゐて、下では何方かと言へば靜かな、せゝらぎのやうな水の音が微かにきこえてゐた。
 杜鵑がキヨ、キヨ、キヨとすぐ前を啼いて通つた。
 來た時に咲いてゐた卯の花の白いのももう見えなくなつて、水ぎはに名の知れない紫の細かい花などが咲き出した。此頃窕子はその若いあるじの僧のことを考へてゐることが著しく多くなつたのを自分でも不思議に微笑まるゝやうな心持でじつと見守るのだつた。本を展げてゐる時にもいつとなくかの女はその僧のことを考へてゐるのに氣が附いた。

         三三

 唐の僧の祈祷の席にも窕子はたびたび出かけた。かの女はそこにも大勢の參籠者がさまざまの願望を抱て手を合せてゐるのを目にした。子に對する苦しみ。子の病に對する苦しみ。妻の夫に對するもだえ。夫の妻に對する悲しみ。さういふ苦みやらもだえやらを持つた人だちは皆なそこに來て坐つた。位記や官名を持つた人だちのためには、別に設けられた席などもあつて、あの肥つた大納言夫妻の姿も常にそこに見られた。
 窕子もいつもそこに案内されるのだが、かの女はその姿の人の目に立つことを嫌つて、わざとあまり派手々々し
前へ 次へ
全213ページ中153ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング