ございます』
『それはしかしもつともだらうな。惚れた身になれば、三年はおろか一年でも半年でも逢はずにゐては、その仲が疎うなるのが心[#「心」は底本では「必」]配になるだらうからな……。三年離れてゐて猶思うてゐるといふことは男にも女にもむつかしいことぢや。それは妻ならば別ぢやが……』
『男子には出來ぬかも知れませんが、女には――』
傍から窕子がだしぬけに言つた。
堀川の殿は驚いたやうにしてそつちを見たが、笑つて、
『女子には出來るといふのか?』
『その女子の心持もよくわかるではござりませんか?』
『それはようわかる……。氣の毒ぢや。しかし攝津介、戀といふものはさういふものではない。三年も逢はずにゐては、どのやうに思ひ合ふたものでも、たよりなう思ふのは當り前ぢやな……。それも雁の便りでも出來ればぢやが、みちのくでは、便りらしい便りも取りかはすことは難かしいでな……』
『さやうでございます』
『それで、關までついて行くのか。まア關までは他について行くものもあらうから、女でも行けるには行けようが、それから先はとてもむつかしいな……』
『行けるところまで行くと申してをりました……』
『美しい女子かな』
『三十路ほどの女子で、眉目の好い方でござりました……。見てゐてあはれでござりました』
皆は申合せたやうに默つた。それといふのもその女のことから、遠く旅行く人達の一行のさまがそれとはつきりその前に描かれて見えたからであつた。その國の司の乘つてゐる斑白毛の馬を中心に七八人ごたごたと渦を卷いてゐるその一行の群が、見馴れた山にも、湖水にも、橋にも、または最後まで別れかねて見送つて來た人達にも別れ別れて、遠く遠くさびしい悲しい野山の旅をして行くさまが、何のことはない、屏風の繪か何かのやうにかれ等の眼の前に動いて行くのであつた。ことに、窕子の眼にははつきりと……。
六
時雨が降つたり木枯が吹いたり、北山に白く雪の來るのが見えたり、鴨河の土手の日あたりに薄や萱がガサコサと靡いたり、加茂の霜月の祭の競馬に棧敷が出來て、きさいの宮が美しい出し車の行列で御參詣になつたり、一の殿とその同胞の殿とが仲がわるくて殿上でもう少しで爭ひするところであつたといふ噂があつたりする間を窕子は旅をしてゐる人達の身の上を微かに遠く思ひやるやうな心持で靜かに過ごした。かの女は東の國にあるといふ、幾日も幾日も行つても盡きない濶い濶い野を頭に浮べたり、その野の果に青く布を敷いたやうに川が流れてゐて、そこに黄色い嘴をした鳥がゐるといふことを想像したり、さうかと思ふと、さうしたさびしい野に野盜がゐて、もしかしてそれがその父親の一行に何か害でも與へはせぬかと心配したり、その間には殿がやつて來て、わざとかの女をからかつて怒らせて見たり、また時にはかねて言つてゐたことが賓行されて、その西の對屋から堀川の邸近くのとある家に移轉して行つたりなどした。その新しい家には母が來て、『これは日あたりの好い家だ……。これでは冬知らずだ』などと言つて、兎にも角にもさういふ家に住まはれる身になつたかの女の幸福を喜んだりした。それにその新居の庭のさまが、その周圍を取廻いた築土の奧の方に竹藪があつてそれに夕日がさびしく當つたりするさまが、やつぱり細かくかの女の心に雜り合つた。
『もう父君は、東の國を通り越したでせうね』
何うかすると、かの女は物思はしさうにかう傍のものに言つたりした。さうかと言つて旅の人達のことばかりを常にその念頭に置いてゐるのでもなかつた。時には世間の噂なども靜かなその胸をかき亂した。何でもその噂では、殿にはいろいろなことがあるらしかつた。女子などもあちこちにあるといふことだ。現にある女のことではその兄上と爭つたりしてゐる。しかし來た時に持出してそれをきいて見ても、巧みにそれを打消してしらばくれてゐる。しらばくれないまでも笑つてゐる。そして『誰がゐたつて、これに越すものはない。このいとしさに越すものはない。大丈夫だよ。そんなに心づかひをしなくとも……。このやさしい美しい心を誰が他所にするものかね……』かう言つてやさしくかの女の涙をその手で拭いたりなどした。窕子はそれにわけなく引寄せられるといふわけではなかつたけれども、しかもさう言はれて見れば、それを信ぜずにはゐられなかつた。兎に角この身を思うて呉れさへすれば好い。縋り効のないものでさへなければ好い……。逢つた當座はたしかにさう思つて滿足してゐるのであるけれども、それが不思議にも一日來ず、二日來ず、三日來ないとなると、次第に何處からともなく不安が萠して來て、さう信じてゐたその身の愚さが繰返されると同時に、男の心の頼りなさが深く深く考へられて來るのであつた。その身がさういふ風に感ぜられてゐるだけそれだけ男はやつぱり同じ
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