い遊蕩者であつたことなども出た。長能が此頃ぴたりと女のあそびをやめたことになつて行つた時には、『いや、それはかをるがえらいんぢやない……。世間ではさう言つてゐたにしても、それはさうでない。世間なんて表面きり見ないものだが……つまり一言で言へば女がおもしろくなくなつたんだよ……。いつまでやつてゐたつて、ひとつだつて本當につかめやしないし、際限がないといふ風に何處かで考へはじめたんだよ。何處かで? 本當に何處かでだよ。自分でもはつきりそこが言へないんだよ。そこにうまくかをるがぶつつかつたんだ――そこが運が好いと言へば好いんだ……』などと言つて笑つた。そしてそれからそのつぎつぎへと殿や窕子のことなどが出て行つたのだつた。殿などでもいつまでもあゝしてゐらるゝものではない……。もう好い加減飽きてをられる。こんなことをも長能は言つた。窕子はさうした言葉を頭にくり返しながら、寺の塔のあるところから谷川の見える方へと行つた。そこらには坊が二つも三つもつゞいて、その一つは崖の上から谷を見下ろすやうな位置にあつた。
谷川の瀬の鳴る音が下の方できこえた。
かの女はもはや三十に近くなつてゐたけれども、その美しさは少しも衰へず、別におつくりをしなくとも、あたりの眼を惹くに十分だつた。かの女はあちこちから此方を見てゐる眼に出會した。
それに誰が話すともなく、東三條殿のおもひものだといふことが參籠に來てゐる人だちの間にもそれと知られてゐるらしく、時々そのうしろの方で、さう言つて囁いてゐる氣勢を聞いた。
殿上人ではないがちよつとしたことから懇意になつたある若い妻は、かの女が歌道に名高い人であることを知つて、かういふ時でなければ教へを乞ふことが出來ないといふやうに、ちよいちよいその坊をたづねて來た。それは名を梅尾と言つてゐた。
ひよいと氣が附くと、その向うのところに、その梅尾が、藏人頭の下にでもつかはれてゐるやうな、若い、意氣な、縹色の柔かな烏帽子を頭に載せた男と睦しさうに竝んで話しながら歩いてゐるのを目にして『おや!』と窕子は思つた。
餘程背後から聲をかけようとしたが、きまりをわるがるだらうと思ひ返して、わざとゆる/\と靜かに歩いた。
かれ等は何う見てもたゞの關係ではなかつた。
またその梅尾の歌にも、さう言へば、遠くにあるものに心を寄せたやうな歌を見たことが度々あつた。窕子は微笑まれるやうな心持がしながら、その二つの姿から眼を離さなかつた。
大抵なら、長い間には、そこらにちよつと立留るとか、うしろを振返るとか、横顏を見せるとかするものであつたが、餘程深く話し込んでゐると見えて、足の歩調をゆるめるでもなく、周圍を見廻すでもなく、ひたりと體を押しつけるやうにして、熱心に話しながらたゞ先へ先へと歩いて行つた。
少くともさうした形で、三町ぐらゐは行つた。
しまひには此方で勞れた。窕子は路の傍にある榻に身を寄せて、そんなものにいつまで心を寄せてゐても爲方がないといふやうに、今度は下に展げられた溪の流の方へと眼をやつた。そこには石がごろごろころがつて、水がその間をすさまじく碎けて流れてゐた。
かれ等はそんなことも知らずに――何處まで行つたらその熱心な物語は盡きるだらうといふやうに、やつぱり同じ歩調で肩を竝べて歩いて行つた。その二つの姿はやがて向うの草むらの中へとかくれて行つて了つた。
何のくらゐゐたか、小半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]くらゐゐたか、それとも半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]くらゐゐたか、自分でも自分がわからずに、草むらに日影のチラチラするのと水のたぎつて落ちて來るのと、黒い斑のある蝶が向うに行つたかと思ふとまた此方へと飛んで來て、そのすぐ前の草の葉にその羽を休めようとしてゐるのとをぢつと見てゐたが、ふと氣が附くと、さつきと同じ歩調の足音がして、やつぱり竝んで、今度は此方を向いて、ふたりが靜かに歩いて來るのを窕子は見た。
向うでそれと氣のついたのは、ずつと此方へ來てからであつた。
梅尾は立留つた。その顏は染めたやうに赤くなつた。
『まア……』
『…………』窕子も流石に氣の毒で、此際何と言つて好いかわからなかつた。
梅尾は一言か二言言つただけで、男を向うに行かせて、そのまゝ此方へとやつて來た。
『好いの?』
『え、え、……もう好いんですの……何でもないんですの……』
『私の方は構はなくつても好いのよ。』
『いゝえ。』
梅尾はまた顏を赤くした。
『從兄が來たもんですから――』
『從兄?』
人がわるいと思つたが窕子は思はずかう言つて了つた。
『…………』
『さう言つてはいけないけど……わたしさつきからあなただちの歩いてゐたのを知つてゐたのよ』
『まア……』
梅尾は聲を立てた。
『あの塔の下のところで、
前へ
次へ
全54ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング