れをもどして了つた。それにじつとしてそこに坐つてゐる父親を見ても、涙がすぐ込み上げるやうに出て來るのだつた。そんな苦しみのない昔は好かつた。父の老いることだの、母の死ぬことだのは少しも考へずに、いつでもそこに行きさへすれば、莞爾したその顏を見ることの出來た昔は無邪氣で且つのんきだつた。何んな苦しいことがあつても、母に行つて話しさへすれば、それで憂さの八分通りは醫された。それなのに、その今の痩せ衰へた顏は! 連日の苦痛にもがいた姿は! 絶えず體を動かすためにばらばらに亂れた髮は! あれが母だらうか。あの衰へた病人があのやさしい常ににこにこした母だらうか。否、人間は一度はさうしたことに逢はなければならないといふことは滿更知らぬではなかつたけれども、しかもそれがこんなにつらく且つ悲しいものであらうとは夢にも知らなかつた。またこんなに頼りないものであるとは夢にも知らなかつた。窕子は今までに經驗したことのない大きな悲哀のその前に避くべからずに迫つて來るのを感じた。兼家は『それが人生だ! 誰だつてさういふ經驗は嘗めなければならないのだ!』窕子があまり思ひ崩折れてゐるのでしまひにはそんなことを言つたけれども、とてもそんなことではその現在の憂悶をまぎらせることは出來なかつた。それほどかの女は母親の大切さを感じた。
 ある夜は、窕子は道綱をその傍に寢させた。
 道綱は怪訝な顏をして母親の顏を見た。
『母者、母者は何うしてそのやうに泣いてゐる?』
『…………』
 さう聞かれただけ一そう層たまらなくなつたといふやうにして窕子はその衣の袖を顏に當てた。
『何うかしたの?』
 窕子は首を振つて、『何でもない……何でもない……』
『でも、母者はさつきから泣いてゐるんだもの……』童殿上してから丸で別な兒のやうにおとなしくなつた道綱は、いかにも心配さうにこんなことを言つて母親の顏を見詰めた。
『何でもない、何でもない……』
 窕子は感慨無量だつた。涙は盡きずに出て來た。
『…………』
 不安さうに何か言はうとして言はずに母親の顏を見た道綱が窕子にはたまらなくいぢらしくなつた。
『何でもないのよ……。心配しなくつても好いのよ……。おばアさんのことなのだから……』
『おばアさんの病氣!』
『さう……、おばアさんの病氣が治らなくつてね。困るね。』
『本當だね……』
 道綱はそれでもいくらか安心したといふ
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