だつた。それがまた一時京の噂の種となつて、『それこそ本當の戀と言ふものぢや。さうしてその戀を添ひ遂げたのが羨しい』といふものもあれば、その一方には、『それはその四の君が色戀の道といふことを知らんのぢや。戀愛といふものはさういふものではない。それからそれへと移つて行くのが本當ぢや。それが戀愛ぢや』などといふものもあつて、殿もある夜醉つてやつて來て、『何うぢや、それなら一緒に武藏野の奧へ行くか。さうすれば、いやでも朝夕一緒にゐられる……。しかしさう一緒に顏ばかり見てゐたつて、戀はつまるまい。お互に離れてゐて、逢いたうなるのでよいのぢやないかのう』などと言はれたことをかの女ははつきりと覺えてゐる。否、それから暫く經つて、それとわかつてゐながら捨てゝ置くわけには行かないといふので、六條殿から使者を東國に出したなどといふ話はきいた。しかしそれだけだつた。それからあとのことは知らなかつた。
『え、さうださうです。その相手がゐる中は、いくら此方から使をやつても戻つては來なかつたさうです……。ところが、今から五六年前、たうとうその相手が亡くなつたので、それで、その屍を燒いて、その骨を持つて、高野へ行つて、そこではじめて身を墨染に更へたのださうです。』
『まアねえ』
 さう言つた窕子の眼の前には、戀愛の世界がはつきりとそこに展げられて來るやうな氣がした。誰だつて皆な同じことだ。皆なさうなるのだ……。何んなにあつい心でも、また何んなに思ひ詰めた心でも皆なおしまひはさうなるのだ……。かの女の眼の前には、今でも美しい色彩やら戀のみだれ心やらで滿たされてゐる内裏の局の内部のことなどが歴々と浮んで見えた。
『よくそれでもねえ!』
 窕子は何方ともつかないやうなことを言つて、
『それでも昔の話などをなさることがございますか?』
『ちつとも……』
 若い尼は頭を強く振つて見て、『いつもあゝして經を誦してゐられるばかりです』
『それでも、東國の話などをなさるやうなことは?』
『この山の中がよう似てゐるなんて言ふには言ひますけれども……そんなことはもうあまり多く考へてはゐられないやうでございますね……』
『それでお里の方からは、たまには何方かがお見えになりますか?』
『ところが、そのお里方にも、もはやその時分の方はいらつしやいませず、ひとり殘つてゐらつした姉の姫宮――御存じでゐらつしやいませうが、兵部
前へ 次へ
全107ページ中90ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング