そんなことはちつとも存じませぬ。初耳でござります……』
『宮はよくさういふことを申して、憤られて御出でであつた。今の世の中に、さういふことを考へるものはない。快樂を追うものでなければ、名を求めるもの、權力を求めるもの、さういふものばかりぢや。そしてそれは何のためかといへば、皆な自分の我儘を振舞うためにさうしてゐるのぢや。ひとりとして人間のため、彌勒の世に進むために力を盡してゐるものなどはない……。それを思ふと、歎かはしいと常に申して居られた!』その故宮に對する考へが急に胸にあつまつて來たらしく、登子は裳の袖をおもてに當てた。
二人ともだまつて了つた。まゝにならぬ苦しみが深くかれ等の胸を塞ぐやうにした。
『本當に、さういふ新しい考へをお持ちになつたのでございますか?』
暫くしてから窕子は訊いた。
『本當もうそもない……。この身が常にきかされたことぢやに……。この身にしても、宮から何のやうにいろいろなことを教へられたことか。佛のことなどでも、深う深う知つて居られた……。今の世の中では、大比叡の坊主どもが快樂のみを説いて、何うせ思ふまゝにならぬ世ぢや。これがさだめぢやと言うて、苦しみをそれで蔽うてゐるが、それは佛の本當の道ではない……とよう言うてをられた。佛はわれぢや。この身ぢや。そなたぢや。とよく言うてをられました……』
『ほんに、そのやうに新しい方でございましたか。それなら、一度でも御目にかゝつて置きたうございました。この身はまたこの身で、今の世の中には、そのやうなことを考へて居らるゝ方はない。詩歌管絃……蹴鞠……酒……女子……さういふものより他心にかけて居るものはないと思うてゐましたのに……。』
『宮はこの世には事なくて生きてゐらるゝ方ではなかつた……』
登子はいろいろなことを思ひあつめたといふやうにして言つた。登子の眼には、網代車を夜暗に細い巷に引入れる人だちだの、大内裏の局の女房に人知れず通つてる人だの、夜もすがら詩歌管絃に遊蕩のかぎりをつくしてゐる人だちだのが――またはこつそりと姫を圍うてゐる坊主や、宮女に花のやうに取卷かれてゐる人だちなどが、はつきりとそこに映つて見えるのだつた。ことに、何も知らない女子が、長い間の慣習のためにそれをあたり前と考へてゐるばかりではなく、女子といふものはそれで好いもの、いかやうに男にもてあそびものにされても好いもの、むしろ
前へ
次へ
全107ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング