も学問が出来るから、お貞《てい》さん、もう安心なもんぢゃ。これからは楽《らく》が出来る』
『何《ど》んなもんですか』
主婦はかう言つた。しかし永年《ながねん》一人で苦労して来た老人や子供の世話を、東京に行けば、子息《むすこ》と一緒にすることが出来ると思ふと、何となく肩が下《お》りるやうな気がした。子息《むすこ》と住むといふことも嬉しかつた。
『それにしても、お宅のは?……御出《おいで》になる所は分つて居るのですか』
『大抵は知れて居るのですけれどな……何《ど》うも不都合で困るぢやな』
『御心配ですねえ』
かう主婦は同情した。
船頭は竿《さを》を弓のやうに張つて、長い船縁《ふなべり》を往つたり来たりした。竿《さを》を当てる襦袢《じゆばん》が処々《ところどころ》破れて居た。一竿《ひとさを》毎に船は段々と下《くだ》つて行つた。
此附近には竹藪が多かつた。水量の多い今は巴渦《うづ》を巻いて流れて居るところもあつた。渡船《とせん》小屋が芦荻《ろてき》の深い茂みの中から見えて居たり、帆を満面に孕《はら》ませた船が二艘も三艘も連つて上《のぼ》つて来るのが見えたりした。竹藪の鳥渡《ちよつと》途絶《とだ》えた世離《よばな》れた静かな好い場所を占領して、長い釣竿を二三本も水に落して、暢気《のんき》さうに岩魚《いはな》を釣つて居る鍔《つば》の大きい麦稈《むぎわら》帽子の人もあつた。
川に臨んで、赤い腰巻を出して、物を洗つて居る女もあつた。
二人の少年は物珍らしいので、下に坐つてなどは居なかつた。紺絣《こんがすり》の兄と白絣《しろがすり》の弟《おとと》と二人並んで、じり/\と上から照り附ける暑い日影《ひかげ》にも頓着《とんぢやく》せず、余念なく移り変つて行く川を眺めて居た。
『霍乱《くわくらん》にでもなると大変だよ』
主婦は下から首を出して、時々声をかけて呼んだ。
兄の少年が手帳を出して、何か書きつけてゐると、其傍《そのそば》に、隣の老人は遣《や》つて来て、
『おい、定公《さだこう》、何か出来るか……』かう言つて聞いて見た。手帳には七言絶句の転結だけが書いてあつた。
道具は大抵|菰包《こもづつみ》にして了《しま》つた。膳も大きなのを一箇《ひとつ》出してあるばかりであつた。昼飯には皆ながそれを取巻いて食つた。暑い日にも腐らぬやうな乾物《ひもの》だとかから鮭の切身だとかを持つて来て、それを菜《さい》にした。
『江戸では、今は松魚《かつを》の盛《さかり》ですな』
『在番《ざいばん》した時分――、勢《いきほひ》の好《い》いあの売声を聞いて、窓から皿を出して買つて食つた時分のことが思はれますな』
少し酒を呑みながら、老人達はこんなことを言つた。
午後には、主婦は連日の疲労につかれ果てたといふやうに、平生《へいぜい》使ひ馴れた黒柿《くろがき》の煙草の箱を枕にして、手拭を顔にかけて、スヤスヤと昼寝をして居た。苫《とま》の間から河風が涼しく吹いて来た。
老人達も少し酔つてやがて寝て了《しま》つた。兄の少年が船から下《お》りて来た時には、盲目《めくら》の婆さんも、鼻唄をやめて横になつて居た。晴れた日影《ひかげ》はキラキラと水に反射して今が暑い盛《さかり》であつた。襦袢《じゆばん》をも脱棄てた二人の船頭は、毛の深い胸のあたりから、ダクダク汗を出しながら、竿《さを》を弓のやうに張つて、頭より尻を高くして船縁《ふなべり》を伝つて行つた。眼の悪い方の船頭は、眼脂《めやに》を夥《おびただ》しく出して、顔を真赤にして居た。
涼しい蔭をつくつた竹藪などはもうなかつた。
五
夕立が催して来た。
船頭は慌てゝ苫《とま》を葺《ふ》いた。其下に一家族は夕立の凄《すさま》じく降つて通る間を輪を描いて集つて居た。銀線のやうな雨が水の上に白い珠《たま》を躍らしてゐるのを苫《とま》の間から少年達は見て居た。
『これで涼しくなつた』
かう老人達が言つた。
夕立の霽《は》れた時には、もう薄暮の色が広い川の上に蔽ひ懸《かか》つて居た。渡良瀬川《わたらせがは》は思川《おもひがは》を入れて、段々大きな利根川の会湊点《くわいそうてん》へと近づいて行つた。風が稍々《やや》追手《おひて》になつたので、船頭は帆を低く張つて、濡れた船尾《とも》の処で暢気《のんき》さうに煙草を吸つて居る。其傍では船頭の上《かみ》さんが、釜に米を入れたのを出して、川から水を汲んで、せつせとそれを炊《と》いで居たが、やがて其処《そこ》から細い紫の煙《けぶり》が絵のやうに川に靡《なび》いた。夕照《せきせう》が赤く水を染めて居た。
老人達は薄暗い処で酒を飲んでゐた。主婦《あるじ》は酒癖の悪い爺さんが、やがて段々酔つて来て、言はないでも好いことを隣の老人に言ひ懸《か》けてゐるのを聞いた。
隣の老人は何の準備《したく》もして来なかつた。酒も飯も黙つて御馳走になつて居た。それも困つて居るからだと主婦は思つて居た。
爺さんもそれを余り虫が好過《よす》ぎると思つて居たらしかつた。
『お爺さん、あんなことを言はなけりや好いのに――折角、心地《ここち》よく連れて来てやつたのに』
隣の老人が舳先《へさき》の方に行つた跡で、主婦《あるじ》は老爺《らうや》に小声で言つた。
『何アに、少し位言つてやる方が好い。余り虫が好過《よす》ぎる』
かう言つた爺さんは、もうかなり酔つて居た。
『だツて困つて居るんだから』
『困つて居たツて、余りだ、瓢箪《へうたん》の一つ位持つて来たツて誰も悪いツて言はない……何もおれだツて、そんなことを喧《やかま》しく言ふぢやないけれどな……義理と言ふものがあらア』
其処《そこ》に下《お》りて来た兄の少年は、またお爺さんの癖が始まつたなと思つた。
螢が一つ闇の中に流れる頃には、船はもう広い広い利根川に出て居た。星の光に水の流るゝのが暗く綾《あや》をなして見えた。艫《ろ》の音が水を渡つて聞えた。
遠い河岸《かし》には、灯が処々《ところどころ》に点《つ》いて居るのが見えた。
其頃、栗橋の鉄橋が出来たばかりであつた。町からわざわざ其橋を見に行つたものも少《すくな》くなかつた。其噂は一家族の人々の耳にも聞えた。
『それ見ろよ、あれが栗橋の鉄橋だと』
かう主婦が二人の少年に指《ゆびさ》して見せた。川を跨《また》いだ大きな鉄橋は暗い夜《よ》の闇の中に其|輪廓《りんくわく》をはつきりと描いて居た。珍らしいものにあくがれて居る兄弟の心は躍らざるを得なかつた。
やがて船は近づいて行つた。橋杭《はしぐひ》に当る水音は高く聞えた。少年も老爺《ろうや》も主婦も其下を通る時、皆仰向いて、その大きな鉄橋を闇に透《すか》して見た。兄弟は手を延してその橋杭《はしぐひ》を叩いて通つた。
六
兄弟の心は東京に憧れ切つて居た。
中でも兄は、これで多年《たねん》の志が遂げられたやうな気がした。東京に行きさへすれば、どんな目的でも達せられる。何《ど》んな豪《えら》い人にでもなれる。馬車に乗るやうな立派な人にもなれる。其処《そこ》には、かれの為めに、あらゆる好運と幸福とが門を開いて待つて居るやうにすら思はれた。
其処《そこ》には何《ど》んな物がかれ等を待つて居るかを知らなかつた。
川は暗かつた。岸の灯《ともし》が明るく処々《ところどころ》に点《つ》いて居た。誰か大な声を立てゝ土手の上を通つて行つた。
艫《ろ》の音が絶えず響く。
船の中にも蚊が居るので、主婦は準備して来た蚊帳《かや》を苫《とま》の角に引懸《ひきか》けて低く吊つて、其処《そこ》に一緒にゴタゴタに頭やら足やらを入れて寝た。棚の上の三分の洋燈《ランプ》は、薄暗く青い蚊帳《かや》を照して居た。涼しい河風がをりをり吹いて通つた。
兄の方の少年は、蚊帳《かや》の中に入《はい》つても、容易に眠られなかつた。眼が冴えて仕方がなかつた。かれは船を漕いで居る船頭の船尾《とも》の処に行つて、黙つて暗い水を眺めて立つた。
一人の船頭は、マッチを闇に摺《す》つて、大きな煙管《きせる》に火をつけて、スパリスパリ遣《や》つて居た。時々|苫《とま》の中の明るく見える船や、篝《かがり》のやうに火を焼《た》いて居る船などがあつた。
朝、人々が眼を覚した時には、船はある小さな埠頭《はとば》に留つて居た。朝霧の晴れ間から、青い蚊帳《かや》を吊つた岸の二階屋の一間《ひとま》が見えたり、女が水に臨んで物を洗つて居るのが眺められたりした。其処《そこ》に泊つて居る船も五六艘はあつた。朝炊《あさげ》の煙《けぶり》が紫に細く騰《あが》つた。
『朝の気持は好《い》いなア……何うだ定公《さだこう》』
かう隣の老人は其処《そこ》に立つて朝の川を眺めて居る兄の方の青年に言つた。
お爺さんは、
『朝酒といふものは旨いものだ』
こんなことを言つて、朝飯の時盃を隣の老人にさした。隣の老人は二三度|辞《ことは》つて見たが、それでも後《あと》では四五杯受けて飲んだ。
隣の老人は、財布にいくらの金をも持つて居なかつた。只《ただ》で乗せて伴れて行つて貰へるからこそ出て来たほどの貧しい身には、世話になるは気の毒だとは思ふが、しかし酒を買ふほどの余裕はなかつた。船に売りに来る大福を買つて、それを弟《おとと》の少年や盲目《めくら》のお婆さんに分けて遣《や》る位の義理が関の山であつた。孫達の話が出ても、上京する一家族の希望に満ちた有様とは比ぶべくもなかつた。隣の老人はいつも小さくなつて居た。他人の世話になる辛さをもつくづく感じた。
『常さんがしつかりして居るから、本当に仕合だ』
いつもかう言つて調子を合せた。
汽船で行けば一日で到着するほどの行程《かうてい》だが、和船では中々さう早くは行かなかつた。暑いと言つては休み、眠らなければならないと言つては碇泊し、荷の積替《つみかへ》をすると言つては、岸の小さい埠頭《はとば》に綱を繋《つな》いだ。荷の種類に由つては、二時間近くも其岸を離れることが出来ないこともあつた。
其時は『かう手間を取つては仕方がない、これではとても今日東京には入《はい》れない。此方《こちら》はまア、船の中で、一晩位余計に寝るのは好《い》いとしても、常《つね》が遅いツて待つてゐるだらう』かう主婦もお爺さんも一方《ひとかた》ならず気を揉《も》んだ。お爺さんは、わざと声を猫撫声《ねこなでごゑ》にして、『船頭さん、もう出しても好《い》い時分だね』などゝ声をかけた。
ある浅瀬では、余り暑いので、船頭が裸で水の中を泳いで居ると、船縁《ふなべり》で見て居た弟《おとと》の方の少年は、堪らなくなつたというやうに着物を脱いで、ザンブと水の中に飛び込んだ。『大丈夫ですよ、私等がついて居るから』船頭はかう言つて心配する主婦の方を見て言つた。
連日の快晴で、水の浅くなつた処などもをり/\あつた。上りの小蒸汽が白いペンキ塗の船体を暑い日影《ひかげ》にキラキラさせて、浅瀬につかへて居る傍《そば》をも通つて行つた。汽船では乗客を皆な別の船に移して、荷を軽くして船員|総《そう》がゝりで、長い竿棹《さを》を五本も六本も浅い州に突張《つつぱ》つて居た。しかも汽船は容易に動かなかつた。煙突からは白い薄い煙《けぶり》が徒《いたづ》らに立つて居た。
其日も暑い日であつた。それに風がなかつた。上《のぼ》りも下《くだ》りも帆を揚げて居る船は一隻もなかつた。一人の船頭の胸からは油汗が流れ、一人の船頭の眼からは眼脂《めやに》が流れた。人々は岸の人家や土手の樹木の移つて行くことの遅いのに段々|倦《う》んで来た。それにヂリヂリと上から照り附けられる苫《とま》の中も暑かつた。盲目《めくら》の婆さん[#「婆さん」は底本では「姿さん」]は、襦袢《じゆばん》一つになつて、濡《ぬら》して絞《しぼ》つて貰つた手拭を、皺《しわ》の深い胸の処に当てゝ居た。
川に臨んで白堊造《しらかべづくり》の土蔵の見える処に来たのは、其日の午後であつた。此処《ここ》には有名な白味淋《しろみりん》の問屋があつた。酒も灘酒《なだ》に匹敵す
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング