涼しくなつた頃から、船頭は船を漕ぎ出した。もう海はさして遠くなかつた。岸には芦荻《ろてき》や藻が繁つて、夕日が汀《みぎは》を赤く染めた。
それに幸《さいはひ》に追手の夕風が吹いた。船頭は帆を揚《あ》げて、楫《かぢ》をギイと鳴らして、暢気《のんき》に煙草をふかした。誰の心も船のやうに早く東京に向つて馳《は》せて居た。
古戦場だといふ高い崖の下を通る頃には、もう夕暮の薄暗い色が、広い川一面に蔽ひかゝつた。
東京に入《はい》つて行く掘割は、それから一里ほど下《くだ》つた処にあつた。それは川口といふところで、和船で交通をする時分には、随分|繁華《はんくわ》な船着であつた。かなり聞えた料理屋も二三軒はあつた。其処《そこ》では田舎にめづらしい海の魚が食へた。赤い帯を締《し》めて戯談《じやうだん》を言ふ女も大勢居た。藩の好《い》い家柄の子息《むすこ》で女房子がありながら、此処《ここ》でさういふ女に溺《おぼ》れて評判に立てられたこともあつた。其頃東京に出る人は、『川口に行けば、むきみ汁が食へる』かう言つて誰も楽しみにして来た。
しかし今ではわざ/\寄つて食事をして行くものもなかつた。料理屋も段々つぶれて了《しま》つて、一番下等なのが唯一軒残つた。爺さんは此家の爺婆《ぢいばば》に昔から懇意であつた。一家族の人々は船から上《あが》つて、暗いランプのついた狭い汚い間で、兼ねて噂に聞いて居る生魚《なまうを》とむきみ汁とを食つた。
兄の少年の眼には曾《かつ》て栄えたところとは何《ど》うしても見えなかつた。闇の田圃《たんぼ》の中に、五六軒|茅葺家《かやぶきや》があつて、其処《そこ》から灯が唯ちら/\見えた。
此処《ここ》でも、船頭は矢張容易に船を出さなかつた。待ちかねて爺さんが其|所在《ありか》を尋ねに行つた。やがて『酒を飲んで酔ぱらつてゐやがる』かう言つて帰つて来た。
船が出た頃には、遅く出た月がもう高くなつて居た。狭い掘割の両側には種々《しゆじゆ》な樹が繁つて、それが月の光を篩《こ》して、美しい閃《きらめ》きを水に投げた。夜《よ》はしんとして居た。ところ/″\にかゝつてゐる船の苫《とま》の中からは灯が見えた。犬の吠える声が四辺《あたり》に響いて高く聞えた。
夏の夜《よ》は明易《あけやす》かつた。両側に人家が続いたり、橋が架《かか》つたりするあたりに来る頃には、もう全《まつた
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