其時|今歳《ことし》十一になる弟《おとと》の方が縁《ふち》の方に駈けて下《お》りて行くを見付けて、
『正《しやう》や、川の方に行くと危ぶないぞ!』
 白絣《しろがすり》を着てメリンスの帯を緊《し》めた子は、それにも頓着せず、急いで川の下《した》の方に下《お》りて行つた。其処《そこ》にはもう十六になる兄が先に行つて居た。岸に繋《つな》がれた一艘の船には、長い間田舎家の茶の間に据ゑられた長火鉢だの、茶箪笥だのがそのまゝ積まれてあつた。
『それ、あの船だぜ!』
 兄はかう弟《おとと》に言つた。
『どれや、どの船?』
『それ、火鉢があるぢやないか』
 其船の船頭は目腐《めくさ》れの中年の男で、今一人の若い方の船頭は頻りに荷物を運んで居た。髪を束ねた上《かみ》さんは苫《とま》やら帆布《ほ》やらをせつせと片付けて居た。
 一家族は此処《ここ》から一里ほど離れた昔の城下の士族町から来た。老人夫婦に取つても、主婦に取つても、長年《ながねん》住み馴れた土地や親しい人々に別れて来るのは辛かつた。東京に行つて、知らぬ土地の土になるのは厭《いや》だ! かう目の盲《し》ひた婆さんは言つた。長年《ながねん》苦労した種に芽が生えて、十分ではなくても、兎に角|子息《むすこ》が月給取になつて、呼んで呉《く》れるのは嬉しいが、東京といふ処は石の上の住居《すまゐ》、一晩でも家賃といふものを出さずには寝られない。それよりはどんなにあばら屋でも、自分の家《うち》で足を長くして寝て居る方が好い。主婦もいざとなつてからかう言ひ出した。しかし月給取になつた子息《むすこ》を一人都に離して置くのも気がかりであつた。それに修業盛《しふげふざかり》の弟達《おととたち》の為めもあつた。
 親類や知人などは一月《ひとつき》も前から、お別れだと言つては、饂飩《うどん》を打つたり肴《さかな》を買つたりして、老夫婦や主婦を呼んで御馳走をした。
 一人の娘は去年さる機屋《はたや》に望まれて嫁にやつた。今年の四月頃から懐妊の気味で、其の前から出るの入《はい》るのと言つて居たが、愈々《いよいよ》上京の話が決ると、『私《わたし》ばかり置いて行くのかえ、母《おつか》さん』と言つて泣きに来た。母親は、『まア、何《ど》うにでもするから、兎に角体が二つになるまで辛抱してお出《い》で』かう宥《なだ》めたり賺《すか》したりしたが、今朝《けさ》発《た》
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