汽船で行けば一日で到着するほどの行程《かうてい》だが、和船では中々さう早くは行かなかつた。暑いと言つては休み、眠らなければならないと言つては碇泊し、荷の積替《つみかへ》をすると言つては、岸の小さい埠頭《はとば》に綱を繋《つな》いだ。荷の種類に由つては、二時間近くも其岸を離れることが出来ないこともあつた。
 其時は『かう手間を取つては仕方がない、これではとても今日東京には入《はい》れない。此方《こちら》はまア、船の中で、一晩位余計に寝るのは好《い》いとしても、常《つね》が遅いツて待つてゐるだらう』かう主婦もお爺さんも一方《ひとかた》ならず気を揉《も》んだ。お爺さんは、わざと声を猫撫声《ねこなでごゑ》にして、『船頭さん、もう出しても好《い》い時分だね』などゝ声をかけた。
 ある浅瀬では、余り暑いので、船頭が裸で水の中を泳いで居ると、船縁《ふなべり》で見て居た弟《おとと》の方の少年は、堪らなくなつたというやうに着物を脱いで、ザンブと水の中に飛び込んだ。『大丈夫ですよ、私等がついて居るから』船頭はかう言つて心配する主婦の方を見て言つた。
 連日の快晴で、水の浅くなつた処などもをり/\あつた。上りの小蒸汽が白いペンキ塗の船体を暑い日影《ひかげ》にキラキラさせて、浅瀬につかへて居る傍《そば》をも通つて行つた。汽船では乗客を皆な別の船に移して、荷を軽くして船員|総《そう》がゝりで、長い竿棹《さを》を五本も六本も浅い州に突張《つつぱ》つて居た。しかも汽船は容易に動かなかつた。煙突からは白い薄い煙《けぶり》が徒《いたづ》らに立つて居た。
 其日も暑い日であつた。それに風がなかつた。上《のぼ》りも下《くだ》りも帆を揚げて居る船は一隻もなかつた。一人の船頭の胸からは油汗が流れ、一人の船頭の眼からは眼脂《めやに》が流れた。人々は岸の人家や土手の樹木の移つて行くことの遅いのに段々|倦《う》んで来た。それにヂリヂリと上から照り附けられる苫《とま》の中も暑かつた。盲目《めくら》の婆さん[#「婆さん」は底本では「姿さん」]は、襦袢《じゆばん》一つになつて、濡《ぬら》して絞《しぼ》つて貰つた手拭を、皺《しわ》の深い胸の処に当てゝ居た。
 川に臨んで白堊造《しらかべづくり》の土蔵の見える処に来たのは、其日の午後であつた。此処《ここ》には有名な白味淋《しろみりん》の問屋があつた。酒も灘酒《なだ》に匹敵す
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