ふものが無えので、娘《あま》つ子《つ》非常に困つて居たといふ事です……。けれど、今途中で聞くと、娘つ子奴、一人で、その死骸を背負《しよ》つて、其小屋の裏山にのぼくつて、小屋の根太《ねだ》やら、扉やらを打破《ぶちこは》して、火葬にしてるといふ事だが……此処から烟《けむ》位見えるかも知れねえ」
 と言つて向ふを見渡した。
 注意されて見ると、成程、三峯の下の小高い丘の深緑の上には、糠雨《ぬかあめ》のおぼつかなき髣髴《はうふつ》の中に、一道の薄い烟が極めて絶え/″\に靡《なび》いて居て、それが東から吹く風に西へ西へと吹寄せられて、忽地《たちまち》雲に交つて了ふ。
「あれが、左様《さう》です」
 と平気で友は教へた。
 それが村で持余された重右衛門の亡骸《なきがら》を焼く烟かと思ふと、自分は無限の悲感に打れて、殆ど涙も零《お》つるばかりに同情を濺《そゝ》がずには居られなかつた。「死はいかなる敵をも和睦《わぼく》させると言ふではないか。であるのに、死んだ後までも猶《なほ》その死骸を葬るのを拒むとは、何たる情ない心であらう。そのあはれなる自然児をして、小屋の扉を破り、小屋の根太《ねだ》を壊して、その夫の死骸を焼く材料を作らせるとは、何たる悲しい何たる情ない事であらう」
 自分の眼の前には、その獣の如き自然児が、涙を揮《ふる》つて、その死骸を焼いて居る光景が分明《はつきり》見える。下には村、かれ等二人が敵として戦つた村が横《よこたは》つて居るが、かの娘は果して何んな感を抱いてこの村を見下して居るであらうか。
「けれど重右衛門の身に取つては、寧《むし》ろこの少女《をとめ》の手――宇宙に唯一人の同情者なるこの自然児の手に親しく火葬せらるゝのが何んなに本意であるか知れぬ。否、これに増《まさ》る導師は恐らく求めても他に在《あ》るまい」
「村の人々、無情なる村の人々、死しても猶《なほ》和睦《わぼく》する事を敢《あへ》てせぬ程の冷《ひやゝ》かなる村の人々の心! この冷かなる心に向つて、重右衛門の霊は何うして和睦せられよう。さればその永久《とこしへ》に和睦せられざる村人の寺に穏かに葬られて眠らんよりは、寧《むし》ろそのやさしき自然の儘《まゝ》なる少女の手に――」
 暗涙が胸も狭しと集つて来た。
「自然児は到底《たうてい》この濁つた世には容《い》られぬのである。生れながらにして自然の形を完全に備へ、自然の心を完全に有せる者は禍《わざはひ》なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業《わざ》もなく、徒《いたづ》らに敗績《はいせき》して死んで了ふであらうか」
「否、否、否、――」
「敗績して死ぬ! これは自然児の悲しい運命であるかも知れぬ。けれどこの敗績は恰《あたか》も武士の戦場に死するが如く、無限の生命を有しては居るまいか、無限の悲壮を顕《あら》はしては居るまいか、この人生に無限の反省を請求しては居るまいか」
 自分は深く思ひ入つた。
 少時《しばらく》してから、
「けれど、この自然児! このあはれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要を以て生れ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分との為めに尽して居るのだ! 葬る人も無く、獣のやうに死んで了つても、それでも重右衛門の一生は徒爾《いたづら》ではない!」
 と心に叫んだ。
 何時《いつ》去つたか、傍には既に友は居らぬ。
 戸外の雨はいよ/\侘《わび》しく、雲霧は愁《うれひ》の影の如くさびしくこの天地に充《み》ち渡つた。丘の上の悲しい煙は、殆ど消ゆるかと思はるゝばかりに微かに、微かに靡《なび》いて居るが、村ではこれに対して一人も同情する者が無いと思ふと、自分は又|簇々《むら/\》と涙を催した。
 あゝその雨中の煙! 自分は何うしてこの光景を忘るゝ事が出来よう。

     十二

 否――
 諸君、自分は其夜更に驚くべく忘るべからざる光景に接したのである。自分は自然の力、自然の意のかほどまで強く凄《すさま》じいものであらうとは夢にも思ひ懸けなかつた。其夜自分は早くから臥床《ふしど》に入つたが、放火の主犯者が死んで了つたといふ考へと、連夜眠らなかつた疲労《つかれ》とは苦もなく自分を華胥《くわしよ》に誘つて、自分は殆ど魂魄《たましひ》を失ふばかりに熟睡して了つた。熟睡、熟睡、今少し自分が眼覚めずに居つたなら自分は恐らく全く黒焼に成つたであらう。自分の眼覚めた時には、既に炎々たる火が全室に満ち渡つて、黒煙が一寸先も見えぬ程に這《は》つて居た。自分は驚いて、慌《あわ》てて、寝衣《ねまき》の儘、前の雨戸を烈しく蹴つたが、幸《さいはひ》にも閾《しきゐ》の溝《みぞ》が浅い田舎家《ゐなかや》の戸は忽地《たちまち》外《はづ》れて、自分は一簇《いちぞく》の黒煙と共に戸外《お
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