苦しんで居たが、ある日、教師から指名されて、「ズー、ケット、ラン」と読方を初めると……、生徒は一同どつと笑つた。
 漢学の素読《そどく》の仕方がまた非常に可笑《をか》しかつた、文章軌範の韓退之《かんたいし》の宰相《さいしやう》に上《たてまつ》るの書を其時分我々は読んで居つたが、それを一種|可笑《をか》しい、調子を附けずには何うしても読めぬので、それが始まるといつも教場を賑《にぎ》はすの種《たね》とならぬ事は無かつたのである。
 ある日、自分が課業を終つて、あたふたとその学校の門を出て行くと、自分より先にその田舎の二人が丸で兄弟でもあるかの様に、肩と肩とを摩合《すりあは》せて、頻《しき》りに何事をか話しながら歩いて行く。
 声を懸けようと思つたけれど、黙つて自分は先へ行つて了《しま》つた。
 次の日も二人|睦《むつま》しさうに並んで行く。
 矢張声を懸けなかつた。
 次の日も……
 又其次の日も矢張同じやうに肩を摩り合せて、同じやうにさも睦しさうに話し合つて行くので、彼等は一体|何所《どこ》に行くのか知らん、自分等の帰る方角に帰つて行くのか知らんと思ひながら、ふと、
「君達は何処《どこ》です」
 と突然尋ねた。
 急に答は為《せ》ずに丁寧に会釈《ゑしやく》してから、
「私等《わしらあ》ですか、私等は四谷《よつや》の塩町《しほちやう》に居るんでがすア」
 と背の高い方がおづ/\答へた。
「僕も四谷の方に行くんだ!」
 と自分も言つた。其頃自分は牛込の富久町《とみひさちやう》に住んで居たので、其処に帰るには是非四谷の塩町は通らなければならぬ。否、四谷の大通には夜などよく散歩に出懸《でかく》る事がある身の、塩町附近の光景には一方《ひとかた》ならず熟して居る。玩弄屋《おもちやや》の隣に可愛い娘の居る砂糖屋、その向ふに松風亭といふ菓子屋、鍛冶屋《かぢや》、酒屋、其前に新築の立派な郵便電信局……。
 二三歩歩いてから、
「塩町つて、……僕はよく知つてるが、塩町の何処です、君達の居る家は……」
「塩町の……湯屋の二階に来て居るんでさア」
「湯屋つて言へば、あの角に柳のある?」
「左様でがさア」
「それぢや僕も入つた事がある湯屋だ。彼処《あすこ》には背の低い、にこ/\した妻君が居る筈《はず》だ」
「好く知つて居やすナア」
 と驚いた様子。
「それぢや、いつでも僕が帰る道だから、これから一所に帰らうぢやありませんか」
「さう願へりや、はア結構だす……」
 と背の低い方が答へた。
 又二三歩黙つて歩いた。
「それで君達の国は一体何処です?」
「私等の国ですか、私等の国は信州でがすが……」
「信州の何処《どこ》?」
「信州は長野の在でがすア」
「何時《いつ》東京《こつち》に来たのです」
「去年の十二月、来たんですが、山中《やまんなか》から、はア出て来たもんだで、為体《えてい》が分らないでえら困りやした」
「塩町の湯屋は親類ですか」
「親類ぢやありやしねえが、村の者で、昔村で貧乏した時分、私等の親が大層世話をした事がある男でさア。十年前に国元ア夜逃げする様にして逃げて来たゞが、今ぢやえら身代《しんだい》のう拵《こしら》へて、彼地処《あすこ》でア、まア好い方だつて言ふたが、人の運て言ふものは解らねえものだす」
 自分はこの時からこの二人に親しく為《な》つたので、段々話を為《し》て見ると、言ふに言はれぬ性質の好い処があつて、背の高い方は田舎者に似合はぬ才をも有《も》つて居るし、又背の低い方は自分と同じく漢詩を作る事を知つて居るので、一月もその同じ道を伴立《つれだ》つて帰る中《うち》には、十年も交つた親友のやうに親しくなつて、互の将来の思想も語り合へば、互の将来の目的も語り合つて、時間の都合で一所に帰られぬ時は非常に寂《さび》しく感ずるといふ程の交情になつて了つた。自分は四谷御門の塵埃《ほこり》の間を歩きながら、幾度二人に向つて、陸軍志願を勧めたであらうか。幾度二人に漢学の修養の必要を説いたであらうか。自分は其頃兄に教はつて居た白文《はくぶん》の八家文《はつかぶん》の難解の処を読み下し、又は即席に七|絶《ぜつ》を賦《ふ》して、大いに二人を驚かした。ことに背の低い山県行三郎《やまがたかうざぶらう》といふのは、自分の漢詩に巧《たくみ》であることを知つて、喜んでその自作の漢詩を示し、好くその故郷《ふるさと》の雪の景色を説明して自分に聞かせた。自分の若い空想に富んだ心は何《ど》んなにその二人の故郷の雪景色なるものを想像したであらうか。二人は言ふのである。自分の故郷は長野から五里、山又山の奥で其の景色の美しさは、とても都会の人の想像などでは解りこは無《ね》えだアと。否、そればかりではない、背の低い山県は学問の時間の間に、その古い手帳をひろげて、其処に描かれたる拙《つた
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