かすかになって、反響を与えぬほどその心は神経的に陥落《ロスト》してしまった。寂しさ、寂しさ、寂しさ、この寂しさを救ってくれるものはないか、美しい姿の唯一つでいいから、白い腕にこの身を巻いてくれるものはないか。そうしたら、きっと復活する。希望、奮闘、勉励、必ずそこに生命を発見する。この濁った血が新しくなれると思う。けれどこの男は実際それによって、新しい勇気を恢復《かいふく》することができるかどうかはもちろん疑問だ。
 外濠《そとぼり》の電車が来たのでかれは乗った。敏捷《びんしょう》な眼はすぐ美しい着物の色を求めたが、あいにくそれにはかれの願いを満足させるようなものは乗っておらなかった。けれど電車に乗ったということだけで心が落ちついて、これからが――家に帰るまでが、自分の極楽境のように、気がゆったりとなる。路側《みちばた》のさまざまの商店やら招牌《かんばん》やらが走馬燈のように眼の前を通るが、それがさまざまの美しい記憶を思い起こさせるので好い心地《ここち》がするのであった。
 お茶の水から甲武線に乗り換えると、おりからの博覧会で電車はほとんど満員、それを無理に車掌のいる所に割り込んで、とにかく右の扉の外に立って、しっかりと真鍮《しんちゅう》の丸棒を攫《つか》んだ。ふと車中を見たかれははッとして驚いた。そのガラス窓を隔ててすぐそこに、信濃町《しなのまち》で同乗した、今一度ぜひ逢いたい、見たいと願っていた美しい令嬢が、中折れ帽や角帽やインバネスにほとんど圧《お》しつけられるようになって、ちょうど烏《からす》の群れに取り巻かれた鳩《はと》といったようなふうになって乗っている。
 美しい眼、美しい手、美しい髪、どうして俗悪なこの世の中に、こんなきれいな娘がいるかとすぐ思った。誰の細君になるのだろう、誰の腕に巻かれるのであろうと思うと、たまらなく口惜しく情けなくなってその結婚の日はいつだか知らぬが、その日は呪《のろ》うべき日だと思った。白い襟首《えりくび》、黒い髪、鶯茶《うぐいすちゃ》のリボン、白魚のようなきれいな指、宝石入りの金の指輪――乗客が混《こみ》合っているのとガラス越しになっているのとを都合のよいことにして、かれは心ゆくまでその美しい姿に魂を打ち込んでしまった。
 水道橋、飯田町、乗客はいよいよ多い。牛込《うしごめ》に来ると、ほとんど車台の外に押し出されそうになった。かれは真鍮の棒につかまって、しかも眼を令嬢の姿から離さず、うっとりとしてみずからわれを忘れるというふうであったが、市谷に来た時、また五、六の乗客があったので、押しつけて押しかえしてはいるけれど、ややともすると、身が車外に突き出されそうになる。電線のうなりが遠くから聞こえてきて、なんとなくあたりが騒々しい。ピイと発車の笛が鳴って、車台が一、二間ほど出て、急にまたその速力が早められた時、どうした機会《はずみ》か少なくとも横にいた乗客の二、三が中心を失って倒れかかってきたためでもあろうが、令嬢の美にうっとりとしていたかれの手が真鍮の棒から離れたと同時に、その大きな体はみごとにとんぼがえりを打って、なんのことはない大きな毬《まり》のように、ころころと線路の上に転《ころ》がり落ちた。危《あぶ》ないと車掌が絶叫したのも遅《おそ》し早し、上りの電車が運悪く地を撼《うご》かしてやってきたので、たちまちその黒い大きい一塊物は、あなやという間に、三、四間ずるずると引《ひ》き摺《ず》られて、紅《あか》い血が一線《ひとすじ》長くレールを染めた。
 非常警笛が空気を劈《つんざ》いてけたたましく鳴った。



底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
   1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
青空文庫作成ファイル:
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