つかはさういふ時が来る。この旅を半《なかば》以上終へた時には必ず来る……)こんなことをBは自分で自分に囁いたりなどした。
 暁は来た。もはや船は太沽《タークー》の沖に来てゐた。Bのすぐ前では、早くもやつて来た水先案内を相手に船長が双眼鏡を眼に当てゝ頻りにあたりを眺めてゐた。やがて[#「やがて」は底本では「やかて」]むづかしい白河《はくが》の遡航《さくかう》が始つた。船の両側にすさまじい濁流が巴渦を巻き出した。風車《かざぐるま》が見え出した。オランダを思はせるやうな赤煉瓦の古風の建物などもあらはれ出した。次第に河の両岸に桃の咲いてゐるのが、その桃の花も盛りを過ぎて僅かにその面影だけを残してゐるのが、それと微かに指さゝれ出して来た。川は何遍となく屈曲して、同じ建物が右に見えたり左に見えたりした。こんな濁つた赤ちやけた水の中にもあの美しい白魚が生息して居て、それを獲るための小舟が、すさまじい急流に逆らひつゝ頻りに網を引いてゐるなども見え出して来た。Bは甲板に立つてじつと眺めた。しかもかれはあらゆるものにかの女を感じた。岸の芦荻《ろてき》に、その根元にたぷたぷと打寄せて来てゐる濁流に、遠い空に
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