歔欷《きよき》に、次第に別離の光景をそのあたりに描き出すやうになつて行つた。
 若い細君は軽快な洋装に水色ボンネツトをつけて、宝石の首飾をあたりに見せてゐたが、ふと此方《こつち》を振向いた顔には、美しい眉と整正《せいせい》な輪廓と大きい黒い眼とがかゞやいた。やがてT氏の紹介でBはH夫妻と挨拶を取り交はしたりなどした。
 T氏もMも、H夫妻を見送りに来た人達も皆な桟橋の方へと下りて行つた。やがて汽船は出帆した。岸でも船でも長い間互ひに手巾《ハンケチ》を振つてゐたが、それもいつか遠く小さくなつて行つた。

 Bの船室から右舷の方へと出て行くところに、ひとり立つてじつと海を眺めてゐる若い美しい女――それは一目で狭斜《けふしや》の人であるといふことがわかつたが、さつきBが夫妻を見た時には、その女が送つて来てゐる待合のお上《かみ》らしい年増とさびしさうにして何かこそこそ話してゐるのが眼に着いたが、(天津《てんしん》にでも鞍替するのかな)と思つたが、今またその白い頬とさびしい眼とがわるくBの体に迫つて来るのを感じた。Bはその傍《かたはら》をそつと掠めるやうにして向うの方へと行つた。
 Bにはさういふ人達のことが何も彼もはつきりとわかるやうな気がした。つかんでもつかんでもつるりと抜けて行つて了ふやうな男の心、浮気な男の心、それは女の方でも破れた草鞋《わらぢ》でも捨てるやうに惜しげもなしに捨てゝ捨てゝ来てはゐるけれども、しかも何うかして、その男の心を一つはつかまずにはゐられないために、さうした女達はかうして遠く海を渡つて行くのではないか。不知案内《ふちあんない》のさびしい海をもひとりさびしくわたつて行くのではないか。(それから思ふと、何んなに遠いところでも、どんなに不知案内の砂漠の中でも、ひとつの男の心をしつかりとつかんで、それに縋つて、何処までも何処までも行かうとするH夫人の方が何れだけ幸福だらうか。同じさびしさにしても何れだけ力強いさびしさであらうか――)Bはじつと夕暮近い海を眺めた。

 幸ひに航路は穏かで、心配した濃霧もかゝらずに茫《ばう》と静かに海は暮れて行つたけれども、しかもさびしさは遂に遂にBを離れなかつた。Bは波濤の舷側に当る音を耳にしながら、長く寝床《ベツト》の上に身を横《よこた》へた。
 そのすぐ向うには、社用で天津に行かうとしてゐるまだ若い三十二三になつたかな
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