と思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。
芳子が父母に許可《ゆるし》を得て、父に伴《つ》れられて、時雄の門を訪《おとの》うたのは翌年の二月で、丁度時雄の三番目の男の児の生れた七夜の日であった。座敷の隣の室は細君の産褥《さんじょく》で、細君は手伝に来ている姉から若い女門下生の美しい容色であることを聞いて少なからず懊悩《おうのう》した。姉もああいう若い美しい女を弟子にしてどうする気だろうと心配した。時雄は芳子と父とを並べて、縷々《るる》として文学者の境遇と目的とを語り、女の結婚問題に就いて予《あらかじ》め父親の説を叩《たた》いた。芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者《クリスチャン》、母は殊《こと》にすぐれた信者で、曽《かつ》ては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。芳子は町の小学校を卒業するとすぐ、神戸に出て神戸の女学院に入り、其処《そこ》でハイカラな女学校生活を送った。基督《キリスト》教の女学校は他の女学校に比して、文学に対して総《すべ》て自由だ。その頃こそ「魔風恋風」や「金色夜叉《こんじきやしゃ》」などを読んではならんとの規定も出ていたが、文部省で干渉しない以前は、教場でさえなくば何を読んでも差支《さしつかえ》なかった。学校に附属した教会、其処で祈祷《きとう》の尊いこと、クリスマスの晩の面白いこと、理想を養うということの味をも知って、人間の卑《いや》しいことを隠して美しいことを標榜《ひょうぼう》するという群《むれ》の仲間となった。母の膝下《ひざもと》が恋しいとか、故郷《ふるさと》が懐《なつ》かしいとか言うことは、来た当座こそ切実に辛《つら》く感じもしたが、やがては全く忘れて、女学生の寄宿生活をこの上なく面白く思うようになった。旨味《おいし》い南瓜《かぼちゃ》を食べさせないと云っては、お鉢《はち》の飯に醤油《しょうゆ》を懸《か》けて賄方《まかないかた》を酷《いじ》めたり、舎監のひねくれた老婦の顔色を見て、陰陽《かげひなた》に物を言ったりする女学生の群の中に入っていては、家庭に養われた少女のように、単純に物を見ることがどうして出来よう。美しいこと、理想を養うこと、虚栄心の高いこと――こういう傾向をいつとなしに受けて、芳子は明治の女学生の長所と短所とを遺憾なく備えていた。
尠《すくな》くとも時雄の孤独なる生活はこれによって破られた。昔の恋人――今の細君。曽《かつ》ては恋人には相違なかったが、今は時勢が移り変った。四五年来の女子教育の勃興《ぼっこう》、女子大学の設立、庇髪《ひさしがみ》、海老茶袴《えびちゃばかま》、男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人も無くなった。この世の中に、旧式の丸髷《まるまげ》、泥鴨《あひる》のような歩き振、温順と貞節とより他《ほか》に何物をも有せぬ細君に甘んじていることは時雄には何よりも情けなかった。路《みち》を行けば、美しい今様《いまよう》の細君を連れての睦《むつま》じい散歩、友を訪えば夫の席に出て流暢《りゅうちょう》に会話を賑《にぎや》かす若い細君、ましてその身が骨を折って書いた小説を読もうでもなく、夫の苦悶《くもん》煩悶には全く風馬牛で、子供さえ満足に育てれば好いという自分の細君に対すると、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。「寂しき人々」のヨハンネスと共に、家妻というものの無意味を感ぜずにはいられなかった。これが――この孤独が芳子に由《よ》って破られた。ハイカラな新式な美しい女門下生が、先生! 先生! と世にも豪《えら》い人のように渇仰して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか。
最初の一月ほどは時雄の家に仮寓《かぐう》していた。華《はな》やかな声、艶《あで》やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、何等の対照! 産褥から出たばかりの細君を助けて、靴下を編む、襟巻《えりまき》を編む、着物を縫う、子供を遊ばせるという生々した態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供と共に細君がいぎたなく眠って了って、六畳の室に徒《いたずら》に明らかな洋燈《ランプ》も、却《かえ》って侘《わび》しさを増すの種であったが、今は如何《いか》に夜更《よふ》けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧に編物の針を動かして、膝《ひざ》の上に色ある毛糸の丸い玉! 賑かな笑声が牛込の奥の小柴垣《こしばがき》の中に充ちた。
けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置く事の不可能なのを覚った。従順なる家妻は敢てその事に不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色《きしょく》は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚《しんせき》間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。
時雄は種々《いろいろ》に煩悶した後、細君の姉の家――軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮している姉の家に寄寓させて、其処《そこ》から麹町《こうじまち》の某|女塾《じょじゅく》に通学させることにした。
三
それから今回の事件まで一年半の年月が経過した。
その間二度芳子は故郷を省《せい》した。短篇小説を五種、長篇小説を一種、その他美文、新体詩を数十篇作った。某女塾では英語は優等の出来で、時雄の選択で、ツルゲネーフの全集を丸善から買った。初めは、暑中休暇に帰省、二度目は、神経衰弱で、時々|癪《しゃく》のような痙攣《けいれん》を起すので、暫《しば》し故山の静かな処に帰って休養する方が好いという医師の勧めに従ったのである。
その寓していた家は麹町の土手三番町、甲武《こうぶ》の電車の通る土手際《どてぎわ》で、芳子の書斎はその家での客座敷、八畳の一間、前に往来の頻繁《ひんぱん》な道路があって、がやがやと往来の人やら子供やらで喧《やかま》しい。時雄の書斎にある西洋本箱を小さくしたような本箱が一閑張《いっかんばり》の机の傍にあって、その上には鏡と、紅皿《べにざら》と、白粉《おしろい》の罎《びん》と、今一つシュウソカリの入った大きな罎がある。これは神経過敏で、頭脳《あたま》が痛くって為方《しかた》が無い時に飲むのだという。本箱には紅葉《こうよう》全集、近松|世話浄瑠璃《せわじょうるり》、英語の教科書、ことに新しく買ったツルゲネーフ全集が際立って目に附く。で、未来の閨秀《けいしゅう》作家は学校から帰って来ると、机に向って文を書くというよりは、寧《むし》ろ多く手紙を書くので、男の友達も随分多い。男文字の手紙も随分来る。中にも高等師範の学生に一人、早稲田《わせだ》大学の学生に一人、それが時々遊びに来たことがあったそうだ。
麹町土手三番町の一角には、女学生もそうハイカラなのが沢山居ない。それに、市ヶ谷見附の彼方《あちら》には時雄の妻君の里の家があるのだが、この附近は殊に昔風の商家の娘が多い。で、尠《すくな》くとも芳子の神戸仕込のハイカラはあたりの人の目を聳《そばだ》たしめた。時雄は姉の言葉として、妻から常に次のようなことを聞される。
「芳子さんにも困ったものですねと姉が今日も言っていましたよ、男の友達が来るのは好いけれど、夜など一緒に二七(不動)に出かけて、遅くまで帰って来ないことがあるんですって。そりゃ芳子さんはそんなことは無いのに決っているけれど、世間の口が喧《やかま》しくって為方《しかた》が無いと云っていました」
これを聞くと時雄は定《きま》って芳子の肩を持つので、「お前達のような旧式の人間には芳子の遣《や》ることなどは判《わか》りやせんよ。男女が二人で歩いたり話したりさえすれば、すぐあやしいとか変だとか思うのだが、一体、そんなことを思ったり、言ったりするのが旧式だ、今では女も自覚しているから、為ようと思うことは勝手にするさ」
この議論を時雄はまた得意になって芳子にも説法した。「女子ももう自覚せんければいかん。昔の女のように依頼心を持っていては駄目だ。ズウデルマンのマグダの言った通り、父の手からすぐに夫の手に移るような意気地なしでは為方が無い。日本の新しい婦人としては、自ら考えて自ら行うようにしなければいかん」こう言っては、イブセンのノラの話や、ツルゲネーフのエレネの話や、露西亜《ロシア》、独逸《ドイツ》あたりの婦人の意志と感情と共に富んでいることを話し、さて、「けれど自覚と云うのは、自省ということをも含んでおるですからな、無闇《むやみ》に意志や自我を振廻しては困るですよ。自分の遣ったことには自分が全責任を帯びる覚悟がなくては」
芳子にはこの時雄の教訓が何より意味があるように聞えて、渇仰の念が愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》加わった。基督《キリスト》教の教訓より自由でそして権威があるように考えられた。
芳子は女学生としては身装《みなり》が派手過ぎた。黄金《きん》の指環をはめて、流行を趁《お》った美しい帯をしめて、すっきりとした立姿は、路傍の人目を惹《ひ》くに十分であった。美しい顔と云うよりは表情のある顔、非常に美しい時もあれば何だか醜い時もあった。眼に光りがあってそれが非常によく働いた。四五年前までの女は感情を顕《あら》わすのに極《きわ》めて単純で、怒った容《かたち》とか笑った容とか、三種、四種位しかその感情を表わすことが出来なかったが、今では情を巧に顔に表わす女が多くなった。芳子もその一人であると時雄は常に思った。
芳子と時雄との関係は単に師弟の間柄としては余りに親密であった。この二人の様子を観察したある第三者の女の一人が妻に向って、「芳子さんが来てから時雄さんの様子はまるで変りましたよ。二人で話しているところを見ると、魂は二人ともあくがれ渡っているようで、それは本当に油断がなりませんよ」と言った。他《はた》から見れば、無論そう見えたに相違なかった。けれど二人は果してそう親密であったか、どうか。
若い女のうかれ勝な心、うかれるかと思えばすぐ沈む。些細《ささい》なことにも胸を動かし、つまらぬことにも心を痛める。恋でもない、恋でなくも無いというようなやさしい態度、時雄は絶えず思い惑った。道義の力、習俗の力、機会一度至ればこれを破るのは帛《きぬ》を裂くよりも容易だ。唯《ただ》、容易に来《きた》らぬはこれを破るに至る機会である。
この機会がこの一年の間に尠《すくな》くとも二度近寄ったと時雄は自分だけで思った。一度は芳子が厚い封書を寄せて、自分の不束《ふつつか》なこと、先生の高恩に報ゆることが出来ぬから自分は故郷に帰って農夫の妻になって田舎《いなか》に埋れて了《しま》おうということを涙交りに書いた時、一度は或る夜芳子が一人で留守番をしているところへゆくりなく時雄が行って訪問した時、この二度だ。初めの時は時雄はその手紙の意味を明かに了解した。その返事をいかに書くべきかに就いて一夜眠らずに懊悩《おうのう》した。穏かに眠れる妻の顔、それを幾度か窺《うかが》って自己の良心のいかに麻痺《まひ》せるかを自ら責めた。そしてあくる朝贈った手紙は、厳乎《げんこ》たる師としての態度であった。二度目はそれから二月ほど経《た》った春の夜、ゆくりなく時雄が訪問すると、芳子は白粉《おしろい》をつけて、美しい顔をして、火鉢《ひばち》の前にぽつねんとしていた。
「どうしたの」と訊《き》くと、
「お留守番ですの」
「姉は何処《どこ》へ行った?」
「四谷へ買物に」
と言って、じっと時雄の顔を見る。いかにも艶《なまめ》かしい。時雄はこの力ある一瞥《いちべつ》に意気地なく胸を躍《おど》らした。二語三語《ふたことみこと》、普通のことを語り合ったが、その平凡なる物語が更に平凡でないことを互に思い知ったらしかった。この時、今十五分も一緒に話し合ったならば、どうなったであろうか。女の表情の眼は輝き、言葉は艶《なま》めき、態度がいかにも尋常《よのつね》でなかっ
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