ば、万事円満に、二人の間柄も将来希望があるのですから」
「よう解っております……」
「けれど出来んですか」
「どうも済みませんけど……制服も帽子も売ってしもうたで、今更帰るにも帰れまえんという次第で……」
「それじゃ芳子を国に帰すですか」
 かれは黙っている。
「国に言って遣りましょうか」
 矢張黙っていた。
「私の東京に参りましたのは、そういうことには寧《むし》ろ関係しない積《つもり》でおます。別段こちらに居りましても、二人の間にはどうという……」
「それは君はそう言うでしょう。けれど、それでは私は監督は出来ん。恋はいつ惑溺《わくでき》するかも解らん」
「私はそないなことは無いつもりですけどナ」
「誓い得るですか」
「静かに、勉強して行かれさえすれァナ、そないなことありませんけどナ」
「だから困るのです」
 こういう会話――要領を得ない会話を繰返して長く相対した。時雄は将来の希望という点、男子の犠牲という点、事件の進行という点からいろいろさまざまに帰国を勧めた。時雄の眼に映じた田中秀夫は、想像したような一箇秀麗な丈夫《じょうふ》でもなく天才肌の人とも見えなかった。麹町《こうじまち》三番町通の安《やす》旅人宿《はたご》、三方壁でしきられた暑い室に初めて相対した時、先《ま》ずかれの身に迫ったのは、基督《キリスト》教に養われた、いやに取澄ました、年に似合わぬ老成な、厭な不愉快な態度であった。京都|訛《なまり》の言葉、色の白い顔、やさしいところはいくらかはあるが、多い青年の中からこうした男を特に選んだ芳子の気が知れなかった。殊に時雄が最も厭に感じたのは、天真流露という率直なところが微塵《みじん》もなく、自己の罪悪にも弱点にも種々《いろいろ》の理由を強《し》いてつけて、これを弁解しようとする形式的態度であった。とは言え、実を言えば、時雄の激しい頭脳《あたま》には、これがすぐ直覚的に明かに映ったと云うではなく、座敷の隅《すみ》に置かれた小さい旅鞄《たびかばん》や憐《あわ》れにもしおたれた白地の浴衣《ゆかた》などを見ると、青年空想の昔が思い出されて、こうした恋の為め、煩悶《はんもん》もし、懊悩もしているかと思って、憐憫《れんびん》の情も起らぬではなかった。
 この暑い一室に相対して、趺坐《あぐら》をもかかず、二人は尠《すくな》くとも一時間以上語った。話は遂に要領を得なかった。「先ず今一度考え直して見給え」くらいが最後で、時雄は別れて帰途に就いた。
 何だか馬鹿らしいような気がした。愚なる行為をしたように感じられて、自らその身を嘲笑《ちょうしょう》した。心にもないお世辞をも言い、自分の胸の底の秘密を蔽《おお》う為めには、二人の恋の温情なる保護者となろうとまで言ったことを思い出した。安|飜訳《ほんやく》の仕事を周旋して貰《もら》う為め、某氏に紹介の労を執ろうと言ったことをも思い出した。そして自分ながら自分の意気地なく好人物なのを罵《ののし》った。
 時雄は幾度か考えた。寧《むし》ろ国に報知して遣ろうか、と。けれどそれを報知するに、どういう態度を以てしようかというのが大問題であった。二人の恋の関鍵《かぎ》を自ら握っていると信ずるだけそれだけ時雄は責任を重く感じた。その身の不当の嫉妬、不当の恋情の為めに、その愛する女の熱烈なる恋を犠牲にするには忍びぬと共に、自ら言った「温情なる保護者」として、道徳家の如く身を処するにも堪えなかった。また一方にはこの事が国に知れて芳子が父母の為めに伴われて帰国するようになるのを恐れた。
 芳子が時雄の書斎に来て、頭を垂れ、声を低うして、その希望を述べたのはその翌日の夜であった。如何《いか》に説いても男は帰らぬ。さりとて国へ報知すれば、父母の許さぬのは知れたこと、時宜《じぎ》に由《よ》れば忽《たちま》ち迎いに来ぬとも限らぬ。男も折角ああして出て来たことでもあり二人の間も世の中の男女の恋のように浅く思い浅く恋した訳でもないから、決して汚れた行為などはなく、惑溺するようなことは誓って為ない。文学は難《むず》かしい道、小説を書いて一家を成そうとするのは田中のようなものには出来ぬかも知れねど、同じく将来を進むなら、共に好む道に携わりたい。どうか暫《しばら》くこのままにして東京に置いてくれとの頼み。時雄はこの余儀なき頼みをすげなく却《しりぞ》けることは出来なかった。時雄は京都|嵯峨《さが》に於《お》ける女の行為にその節操を疑ってはいるが、一方には又その弁解をも信じて、この若い二人の間にはまだそんなことはあるまいと思っていた。自分の青年の経験に照らしてみても、神聖なる霊の恋は成立っても肉の恋は決してそう容易に実行されるものではない。で、時雄は惑溺せぬものならば、暫くこのままにしておいて好いと言って、そして縷々《るる》として霊の恋
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