して汚《けが》れた関係の無いことを弁明し、別れて後互に感じた二人の恋愛をも打明けて、先生にお縋り申して郷里の父母の方へも逐一《ちくいち》言って頂こうと決心して参りましたそうです。けれどこの間の私の無謀で郷里の父母の感情を破っている矢先、どうしてそんなことを申して遣《つか》わされましょう。今は少時《しばらく》沈黙して、お互に希望を持って、専心勉学に志し、いつか折を見て――或《あるい》は五年、十年の後かも知れません――打明けて願う方が得策だと存じまして、そういうことに致しました。先生のお話をも一切話して聞かせました。で、用事が済んだ上は帰した方が好いのですけれど、非常に疲れている様子を見ましては、さすがに直ちに引返すようにとも申兼ねました。(私の弱いのを御許し下さいまし)勉学中、実際問題に触れてはならぬとの先生の御教訓は身にしみて守るつもりで御座いますが、一先《ひとまず》、旅籠屋《はたごや》に落着かせまして、折角出て来たものですから、一日位見物しておいでなさいと、つい申して了いました。どうか先生、お許し下さいまし。私共も激しい感情の中に、理性も御座いますから、京都でしたような、仮りにも常識を外《はず》れた、他人から誤解されるようなことは致しません。誓って、決して致しません。末ながら奥様にも宜《よろ》しく申上げて下さいまし。
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[#地から2字上げ]芳子
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先生 御もと
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 この一通の手紙を読んでいる中、さまざまの感情が時雄の胸を火のように燃えて通った。その田中という二十一の青年が現にこの東京に来ている。芳子が迎えに行った。何をしたか解らん。この間言ったこともまるで虚言《うそ》かも知れぬ。この夏期の休暇に須磨《すま》で落合った時から出来ていて、京都での行為もその望を満す為め、今度も恋しさに堪《た》え兼ねて女の後を追って上京したのかも知れん。手を握ったろう。胸と胸とが相触れたろう。人が見ていぬ旅籠屋の二階、何を為ているか解らぬ。汚れる汚れぬのも刹那《せつな》の間だ。こう思うと時雄は堪《たま》らなくなった。「監督者の責任にも関する!」と腹の中で絶叫した。こうしてはおかれぬ、こういう自由を精神の定まらぬ女に与えておくことは出来ん。監督せんければならん、保護せんけりゃならん。私共は熱情もあるが理性がある! 私共とは何だ! 何故《なぜ》私とは書かぬ、何故複数を用いた? 時雄の胸は嵐《あらし》のように乱れた。着いたのは昨日の六時、姉の家に行って聞き糺《ただ》せば昨夜何時頃に帰ったか解るが、今日はどうした、今はどうしている?
 細君の心を尽した晩餐《ばんさん》の膳《ぜん》には、鮪《まぐろ》の新鮮な刺身に、青紫蘇《あおじそ》の薬味を添えた冷豆腐《ひややっこ》、それを味う余裕もないが、一盃《いっぱい》は一盃と盞《さかずき》を重ねた。
 細君は末の児を寝かして、火鉢の前に来て坐ったが、芳子の手紙の夫の傍にあるのに眼を附けて、
「芳子さん、何て言って来たのです?」
 時雄は黙って手紙を投げて遣《や》った、細君はそれを受取りながら、夫の顔をじろりと見て、暴風の前に来る雲行の甚だ急なのを知った。
 細君は手紙を読終って巻きかえしながら、
「出て来たのですね」
「うむ」
「ずっと東京に居るんでしょうか」
「手紙に書いてあるじゃないか、すぐ帰すッて……」
「帰るでしょうか」
「そんなこと誰が知るものか」
 夫の語気が烈《はげ》しいので、細君は口を噤《つぐ》んで了った。少時《しばらく》経《た》ってから、
「だから、本当に厭《いや》さ、若い娘の身で、小説家になるなんぞッて、望む本人も本人なら、よこす親達も親達ですからね」
「でも、お前は安心したろう」と言おうとしたが、それは止《よ》して、
「まア、そんなことはどうでも好いさ、どうせお前達には解らんのだから……それよりも酌でもしたらどうだ」
 温順な細君は徳利を取上げて、京焼の盃《さかずき》に波々と注ぐ。
 時雄は頻《しき》りに酒を呷《あお》った。酒でなければこの鬱《うつ》を遣るに堪えぬといわぬばかりに。三本目に、妻は心配して、
「この頃はどうか為ましたね」
「何故?」
「酔ってばかりいるじゃありませんか」
「酔うということがどうかしたのか」
「そうでしょう、何か気に懸ることがあるからでしょう。芳子さんのことなどはどうでも好いじゃありませんか」
「馬鹿!」
 と時雄は一|喝《かつ》した。
 細君はそれにも懲りずに、
「だって、余り飲んでは毒ですよ、もう好い加減になさい、また手水場《ちょうずば》にでも入って寝ると、貴郎《あなた》は大きいから、私と、お鶴(下女)の手ぐらいではどうにもなりやしませんからさ」
「まア、好いからもう一本」
 で、もう一本を半分位
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