胸迫りて最後の会合すら辞《いな》み候心、お察し被下度候、新橋にての別離、硝子戸《ガラスど》の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候ようの心地致し、今|猶《なお》まざまざと御姿見るのに候、山北辺より雪降り候うて、湛井《たたい》よりの山道十五里、悲しきことのみ思い出《い》で、かの一茶が『これがまアつひの住家か雪五尺』の名句痛切に身にしみ申候、父よりいずれ御礼の文奉り度|存居《ぞんじおり》候えども今日は町の市日《いちび》にて手引き難く、乍失礼《しつれいながら》私より宜敷《よろしく》御礼申上候、まだまだ御目汚し度きこと沢山に有之候えども激しく胸騒ぎ致し候まま今日はこれにて筆|擱《お》き申候」と書いてあった。
時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思い遣《や》った。別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの余り、微《かす》かに残ったその人の面影《おもかげ》を偲《しの》ぼうと思ったのである。武蔵野《むさしの》の寒い風の盛《さかん》に吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音が凄《すさま》じく聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を一枚明けると、光線は流るるように射し込んだ。机、本箱、罎《びん》、紅皿《べにざら》、依然として元のままで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の抽斗《ひきだし》を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂《にお》いを嗅《か》いだ。暫《しばら》くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡《から》げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団《ふとん》――萌黄唐草《もえぎからくさ》の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟《えり》の天鵞絨《びろうど》の際立《きわだ》って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅《か》いだ。
性慾と悲哀と絶望とが忽《たちま》ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
薄暗い一室、戸外には風が吹暴《ふきあ》れていた。
底本:「蒲団・重右衛門の最後」新潮文庫、新潮社
1952(昭和27)年3月15
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