い脛《すね》もその半ばを没してしまうのだ。大石橋《だいせっきょう》の戦争の前の晩、暗い闇《やみ》の泥濘《でいねい》を三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥って少しも動かぬのを押して押して押し通した。第三|聯隊《れんたい》の砲車が先に出て陣地を占領してしまわなければ明日の戦いはできなかったのだ。そして終夜働いて、翌日はあの戦争。敵の砲弾、味方の砲弾がぐんぐんと厭な音を立てて頭の上を鳴って通った。九十度近い暑い日が脳天からじりじりと照りつけた。四時過ぎに、敵味方の歩兵はともに接近した。小銃の音が豆を煎《い》るように聞こえる。時々シュッシュッと耳のそばを掠《かす》めていく。列の中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日に彩《いろど》られて、その兵士はガックリ前に※[#「※」は「あしへん」に「倍」のつくり、第3水準1−92−37、144−18]《のめ》った。胸に弾丸があたったのだ。その兵士は善い男だった。快活で、洒脱《しゃだつ》で、何ごとにも気が置けなかった。新城町《しんしろまち》のもので、若い嚊《かかあ》があったはずだ。上陸当座はいっしょによく徴発に行ったっけ。豚を逐《お》い廻《まわ》したッけ。けれどあの男はもはやこの世の中にいないのだ。いないとはどうしても思えん。思えんがいないのだ。
褐色の道路を、糧餉《ひょうろう》を満載した車がぞろぞろ行く。騾車《らしゃ》、驢車《ろしゃ》、支那人の爺《おやじ》のウオウオウイウイが聞こえる。長い鞭《むち》が夕日に光って、一種の音を空気に伝える。路の凸凹《でこぼこ》がはげしいので、車は波を打つようにしてガタガタ動いていく。苦しい、息が苦しい。こう苦しくってはしかたがない。頼んで乗せてもらおうと思ってかれは駆け出した。
金椀がカタカタ鳴る。はげしく鳴る。背嚢の中の雑品や弾丸袋の弾丸がけたたましく躍《おど》り上がる。銃の台が時々|脛《すね》を打って飛び上がるほど痛い。
「オーい、オーい」
声が立たない。
「オーい、オーい」
全身の力を絞って呼んだ。聞こえたに相違ないが振り向いてもみない。どうせ碌《ろく》なことではないと知っているのだろう。一時思い止《と》まったが、また駆け出した。そして今度はその最後の一輌《いちりょう》にようやく追い着いた。
米の叺が山のように積んである。支那人の爺が振り向いた。丸顔の厭な顔だ。有無をいわせずその車に飛び乗った。そして叺と叺との間に身を横たえた。支那人はしかたがないというふうでウオーウオーと馬を進めた。ガタガタと車は行く。
頭脳がぐらぐらして天地が廻転《かいてん》するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚の腓《ふくらはぎ》のところが押しつけられるようで、不愉快で不愉快でしかたがない。ややともすると胸がむかつきそうになる。不安の念がすさまじい力で全身を襲った。と同時に、恐ろしい動揺がまた始まって、耳からも頭からも、種々の声が囁《ささや》いてくる。この前にもこうした不安はあったが、これほどではなかった。天にも地にも身の置きどころがないような気がする。
野から村に入ったらしい。鬱蒼《こんもり》とした楊《やなぎ》の緑がかれの上に靡《なび》いた。楊樹《やなぎ》にさし入った夕日の光が細かな葉を一葉一葉明らかに見せている。不恰好《ぶかっこう》な低い屋根が地震でもあるかのように動揺しながら過ぎていく。ふと気がつくと、車は止まっていた。かれは首を挙《あ》げてみた。
楊樹の蔭《かげ》を成しているところだ。車輛《くるま》が五台ほど続いているのを見た。
突然肩を捉えるものがある。
日本人だ、わが同胞だ、下士だ。
「貴様はなんだ?」
かれは苦しい身を起こした。
「どうしてこの車に乗った?」
理由を説明するのがつらかった。いや口をきくのも厭なのだ。
「この車に乗っちゃいかん。そうでなくってさえ、荷が重すぎるんだ。お前は十八聯隊だナ。豊橋だナ」
うなずいてみせる。
「どうかしたのか」
「病気で、昨日まで大石橋の病院にいたものですから」
「病気がもう治《なお》ったのか」
無意味にうなずいた。
「病気でつらいだろうが、おりてくれ。急いで行かんけりゃならんのだから。遼陽《りょうよう》が始まったでナ」
「遼陽!」
この一語はかれの神経を十分に刺戟した。
「もう始まったですか」
「聞こえんかあの砲が……」
さっきから、天末に一種のとどろきが始まったそうなとは思ったが、まだ遼陽ではないと思っていた。
「鞍山站《あんざんたん》は落ちたですか」
「一昨日《おととい》落ちた。敵は遼陽の手前で、一防禦《ひとふせぎ》やるらしい。今日の六時から始まったという噂《うわさ》だ!」
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