く。
 夕日が画のように斜めにさし渡った。
 さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺《かます》の積み荷の上に突っ立っているのが彼奴《きゃつ》だ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站《あんざんたん》まで乗せていってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩兵が車に乗るという法があるかとどなった。病気だ、ご覧の通りの病気で、脚気《かっけ》をわずらっている。鞍山站の先まで行けば隊がいるに相違ない。武士は相見互いということがある、どうか乗せてくれッて、たって頼んでも、言うことを聞いてくれなかった。兵、兵といって、筋が少ないとばかにしやがる。金州でも、得利寺でも兵のおかげで戦争に勝ったのだ。馬鹿奴《ばかめ》、悪魔奴!
 蟻だ、蟻だ、ほんとうに蟻だ。まだあそこにいやがる。汽車もああなってはおしまいだ。ふと汽車――豊橋を発《た》ってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。万歳の声が長く長く続く。と忽然《こつぜん》最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心からかわいいと思った時の美しい笑い顔だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅《おそ》くなるよと揺り起こす。かれの頭はいつか子供の時代に飛び返っている。裏の入江の船の船頭が禿頭《はげあたま》を夕日にてかてかと光らせながら子供の一群に向かってどなっている。その子供の群れの中にかれもいた。
 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画《くかく》を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。
 褐色の道路――砲車の轍《わだち》や靴《くつ》の跡や草鞋《わらじ》の跡が深く印したままに石のように乾いて固くなった路《みち》が前に長く通じている。こういう満州の道路にはかれはほとんど愛想をつかしてしまった。どこまで行ったらこの路はなくなるのか。どこまで行ったらこんな路は歩かなくってもよくなるのか。故郷のいさご路《じ》、雨上がりの湿った海岸の砂路《いさごじ》、あの滑《なめ》らかな心地の好い路が懐《なつか》しい。広い大きい道ではあるが、一つとして滑らかな平らかなところがない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長
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