けれどここに倒れるわけにはいかない。死ぬにも隠れ家を求めなければならぬ。そうだ、隠れ家……。どんなところでもいい。静かな処に入って寝たい、休息したい。
 闇《やみ》の路《みち》が長く続く。ところどころに兵士が群れを成している。ふと豊橋《とよはし》の兵営を憶い出した。酒保に行って隠れてよく酒を飲んだ。酒を飲んで、軍曹をなぐって、重営倉に処せられたことがあった。路がいかにも遠い。行っても行っても洋館らしいものが見えぬ。三、四町と言った。三、四町どころか、もう十町も来た。間違ったのかと思って振り返る――兵站部は燈火の光、篝火《かがりび》の光、闇の中を行き違う兵士の黒い群れ、弾薬箱を運ぶかけ声が夜の空気を劈《つんざ》いて響く。
 ここらはもう静かだ。あたりに人の影も見えない。にわかに苦しく胸が迫ってきた。隠れ家がなければ、ここで死ぬのだと思って、がっくり倒れた。けれども不思議にも前のように悲しくもない、思い出もない。空の星の閃《ひらめ》きが眼に入った。首を挙《あ》げてそれとなくあたりを※[#「※」は「目+旬」、第3水準1−88−80、156−3]《みまわ》した。
 今まで見えなかった一棟の洋館がすぐその前にあるのに驚いた。家の中には燈火が見える。丸い赤い提燈《ちょうちん》が見える。人の声が耳に入る。
 銃を力にかろうじて立ち上がった。
 なるほど、その家屋の入り口に酒保らしいものがある。暗いからわからぬが、何か釜らしいものが戸外の一隅《かたすみ》にあって、薪《まき》の余燼《もえさし》が赤く見えた。薄い煙が提燈を掠《かす》めて淡く靡いている。提燈に、しるこ一杯五銭と書いてあるのが、胸が苦しくって苦しくってしかたがないにもかかわらずはっきりと眼に映じた。
 「しるこはもうお終《しま》いか」
 と言ったのは、その前に立っている一人の兵士であった。
 「もうお終いです」
 という声が戸内《うち》から聞こえる。
 戸内を覗《のぞ》くと、明らかな光、西洋|蝋燭《ろうそく》が二本裸で点《とも》っていて、罎詰《びんづめ》や小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、肥《ふと》った、口髭《くちひげ》の濃い、にこにこした三十男がすわっていた。店では一人の兵士がタオルを展《ひろ》げて見ていた。
 そばを見ると、暗いながら、低い石階《いしだん》が眼に入った。ここだなとかれは思った。とに
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