の「きずな」は底本では「きづな」と誤植]のさらに身にまつわるを新たに覚えた。
 過労と営養不良とで、乳が十日目ころからぱったり留まった。赤児は火のついたように間断《ひっきり》なしに泣く。それを聞くと、母親というものは総身の血が戦《ふる》えるほどに苦しく思った。で、お作もその身の食物を求めるよりもまず赤児の乳を尋ねまわった。乳酪《ミルク》を買う銭がないので、隙《ひま》をつぶして、あっちこっちと情け深い人の恵みを求め歩いた。で、昼はまずどうやらこうやら過ごしていくが、夜が実につらい。出ぬ乳をあてがって、畳の足に引っかかる一間の中をあっちこっちと動物園の虎《とら》のようにして揺《ゆす》って歩くが、どうしても泣きやまぬ時などは、いっそ放り出してしまおうかと思うほどだ。
 産褥《さんじょく》を早く離れた結果と、営養の不足と、精神の過労とで、今までついぞ病んだことのないお作も、はげしい頭痛と眩惑とを感じて、路を歩いてもおりおり倒れそうになることがある。ある日などは、やむなく終日を一室に倒れていたことなどもあった。だから、労働して食を得ようなどとは思いも寄らぬ。飢餓と病と心労と――お作はいよいよ苦境に陥った。
 一月ほど経《た》ったある日の午後であった。
 お作は起き上がった――室は暗く汚《きたな》い。一隅に小さい葛籠《つづら》、その傍に近所の人の情けで拵《こしら》えた蒲団《ふとん》に赤児《あかご》がつぎはぎの着物を着て寝ていて、その向こうに一箇の囲炉裏《いろり》、黒い竹の自在鍵《じざいかぎ》に黒猫《くろねこ》のようになった土瓶《どびん》がかかっていて、そばに粥《かゆ》を炊く土鍋《どなべ》が置かれてあるが、幾日にもそれを炊いた跡が見えない。木の燃えさしがだらしなく転《ころ》がっていて、畳の黒く焦げたのがきわだって眼につく。これは祭文読みとお作と喧嘩《けんか》した時、過《あや》まって取り落として燃えたのであった。戸外は秋の灰色に曇った日、山の温泉場はやや閑《ひま》で、この小屋の前から見ると、低くなった凹地《くぼち》に二階三階の家屋が連って、大湯《おおゆ》から絶えず立ちあがる湯の煙は静かに白く靡《なび》いていた。
 渓流《たに》の瀬の鳴る音が遠くで聞こえる。
 お作は立ちあがった。二日以来飯をろくろく食わぬので、足が妙にふらつく。こう腹が減ってはしかたがない。なんでもいいから食えるも
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