樹のところに来て旅商人はふと立ち留まった。痩《や》せた、顔の青い、髪の延びた男であった。背には風呂敷《ふろしき》包み、紺の脚絆《きゃはん》も長旅の塵埃に塗《まみ》れて、いかにも疲れ果てたというふうであったが――立ち留まって、あとを追いかけてきた田舎娘を待った。伴《つ》れていってやるから、なんでも言うことを聞くかという。お作は喜んだ。
その楊樹の繁《しげ》みをお作はいつも思い出す。まだ何ごとをも知らぬ小娘、長旅の疲労に伴って起こった男のはげしい慾望、彩色を施した横|綴《と》じの絵、――二十分の後、旅客の大跨《おおまた》で走って遁《に》げていくのをお作は泣きながら追った。けれど女の足でどうしてこれに追いつくことができよう。欺かれたと知って、忿怒《いかり》がたちまち心頭を衝《つ》いて起こった。お作は小石を拾ってあとから投げた。一つが旅商人の背中に当たった。と、振り返ったその顔、それが今でもありありと眼に見える。
その時が十四歳、それから十九歳の昨年まで、お作はその呪《のろ》うべき故郷を去ることができなかったのだ。叔父夫婦の虐待、終日の労働、夏のじりじりと眼も眩《くら》む日に雇われて、十二時間の田草取り、麦の収穫の忙しい時にはほとんど昼飯を食う暇もない。それに養蚕《かいこ》の手伝い、雨の日の桑つみ、荷車のあと押し、労働という労働はせぬものとてはなかった。またある時は、機《はた》の工場に雇われて、一日に一反半の高機織り、鼻唄を唄う元気さえなくなった。筬《おさ》をしめる腕は、自分のか他人のかわからぬくらいにつかれ果てることもあった。若いというのは人間の幸福、いくらはげしく働いても、夜は楽しい機織り室の戸を、ことことと叩《たた》く音がして、闇《やみ》に白い頬《ほお》かぶりの男の立ち姿、お作の朋輩《ほうばい》にはこういう羨《うらや》ましい群れがたくさんあったけれど、お作はこの若いという幸福をも充分には受けえられぬ不幸の身であった。彼女は額の大きい、鼻の丸い、ちぢれ毛の、鉄色した醜い女であった。
しかし十九歳で故郷を去ったお作には相手があった。この界隈《かいわい》でも有名な祭文読み、博奕《ばくち》が好きで、女が好きで、ことに声が好いので評判であった。生まれは西のものだそうだが、一年ほど前からこの地に来て、あるいは鎮守の祭り、村の若者の集合するところなどに呼ばれて、錆《さ》びた
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