山に張って出してある家の中にも入って行って見た。其処には矢張かれと同じように職業を求める青年がいて、あるかなしの財布の中から五円札を一枚出したりしていた。勇吉はいろいろなことを訊いて其処から帰って来た。
ある学校友達は、此前東京に出た時分には、早稲田の学校に入って劇の方に志していたが、此頃では大分文壇に名高くなって、その人の書くものなどが時々芝居に演ぜられたりなどしていた。一度其処を訪問して見ようと思ったがまア印刷が出来上ってからと思って、途中まで行ったのを引かえして戻って来た。「千枚で五十三円、二十円位で出来ると思っていたのに……大分の違いだ。」こんなことを思って、かれは歩きながら貯金を腹の中で勘定したしりた。「二月、三月はまア好いが、そうかと言って、女房と子供をかかえて遊んでなんかいられない。」かれは蕎麦屋にも入らずに、飢えた腹を抱えて裏店の狭い自分の宅に帰って来た。
印刷は何うもはかどらなかった。二十日でも、もう遅いと思っているのに、二十一日になっても、まだその暦は出来て来なかった。催促に行くと、「何うも廻すところが旨く行きませんでな。」などと言って主人はその半分出来かかったものを持って来て見せた。成るほど旨く廻らなかった。「もう少し厚い紙にしなけりゃ駄目だ。」などと言った。周囲の意匠はかなりによく出来ていた。四季の花卉が四隅に小さく輪廓を取って書いてあった。「明日までには是非拵えて下さい。でないと困るんですから。」こう強く頼んで、勇吉は其処から帰って来た。イヤに曇った寒い日で、近所の工場の煤烟が低くあたりにむせるように靡いて来ていた。
家に帰ると、妻は不愉快な心配そうな顔をして坐っていた。
突然、
「貴方、また来たよ。」
勇吉はゾッとした。「え? 来た?」
漸く免れた危機に再び迫られて来たような戦慄を勇吉は覚えた。勇吉は棒のように其処に立っていた。
「矢張、駄目ですね。」
妻は失望したように言った。今から一時間ほど前、巡査が入って来て、「お前は北海道から来たのか。」と訊いた。「士別の近所にいたんだな。」こう言ってつづいていろいろなことを訊いた。Socialist の取扱を受けていたということをちゃんと巡査は知っていた。イヤなことを種々言ってまた其中主人のいる時来ると言って帰って行った。
「何うしても駄目かね。」
勇吉は黙って暗い顔をしていた。
前へ
次へ
全19ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング