た。果して夫の言う通りならば、こんな寒い荒蕪地の中に暮しているより何れほど好いか知れなかった。絶えず心配になっている Socialist の嫌疑を避け得られるだけでも好いと思った。始めて運が開いて来たという風にも考えられた。長年夫を知っているので、時には、「何を言っているんだかわかりゃしない。そんな暦が売れるもんだか何だかわかりゃしない。」こう不安に思うこともないではなかったが、雪の中に顫えて餓えているよりは、何んな苦労をしても東京に行く方がまだしも好いと妻は思った。
「私は何んな苦労をしても好いけど、貴方もしっかりして下さらなけりゃ仕方がないよ。」
こう妻は勇吉に言った。
五
小さな海岸の停車場から目も覚めるような賑やかな大きな上野の停車場までのさまざまな光景は、何枚続きの絵か何ぞのようになって勇吉の妻の眼に映って見えた。雪、雪、雪、何処を見ても雪ばかりの広い荒漠とした野原の中の停車場が見えるかと思うと、何本もわからないほどの煙突が黒い凄じい煤煙をあたりに漲らしているような大きな町なども見えた。ある線からある線へ乗換える停車場では二人は寒気に顫えながら、家から持って来た冷たい結飯などを食った。女の兒が泣いて泣いて何うしてもだまらないので、一度背中から下して、乳を含ませて見たりなどしたが、矢張りそりかえって火がつくように烈しく泣いた。
「貴方、ちょっと抱いて下さい。」
こう言うと、夫は暗い顔をして黙ってそれを抱いてあちこちと揺って歩いた。暗い暗いプラットホームだった。汽車は大きな眼のように光をかがやかして凄しい地響をさせてその停車場に入って来た。
夥しく混み合った三等室を勇吉の妻は眼の前に浮べた。大きな荷物を抱えて二人は入って行ったが、何処も一杯で坐る処がなかった。妻だけは何うやらこうやら割り込むようにして腰をかけさせて貰ったが、勇吉は大きな荷物を下に置きながら、便所の扉のところに凭りかかっていなければならなかった。それに便所の扉は幾度か明けられたり閉められたりした。後には夫は立ちくたびれて堪らなくなったというようにして荷物の上に腰を掛けた。
大きな町の雪に埋っているさまなども見えた。鮨、弁当、正宗、マッチ、煙草――と長く引張った物売の声が今だに耳について残っているように思われた。海に近い町に来て汽車を下りて、停車場の傍の方の小さな旅舎で朝飯
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