覚醒が来た。
恐怖を感じ、寂寞《せきばく》を感じ、孤独を感じ、倦怠《けんたい》を感じた時にのみ仏の前に行つて手を合せたかれは、今では自ら進んでその本堂の本尊の前に行くやうになつた。最早かれの読経《どきやう》はかれのための読経ではなかつた。また仏に向つて合掌するかれの手は、かれのための合掌|礼拝《らいはい》ではなかつた。新しい力はかれの魂を蘇《よみがへ》らせた。かれはかれの後半生を仏の功徳《くどく》を讃するために用ゐることを悔いなかつた。
不思議の心理ではないか。また不思議な顛倒《てんたう》ではないか。かれは今まで消極的であつた自己を最早何処にも見出すことが出来なかつた。かれを苦しめたあらゆる幻影、恐ろしい溺死の光景、恨《うらみ》を含んだ心の形のあらはれた光景、絞首《かうしゆ》の刑に逢つた「恐ろしい群」の人達の光景、さういふ無限のシインは最早かれを脅《おびや》かすことはなかつた。新しい力は満ちた。
貧、苦、乏、病に満ちた世界である。それは皆な我《われ》に着いたために起つて来たあらゆる光景である。ある国はある国と争つて、無辜《むこ》の血を流してゐる。ある人間はある人間と争つて、互に虚
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