《かつ》機嫌がよかった。何故って母様がおいしい物を拵《こしら》えては、お茶碗《ちゃわん》に散蓮華《ちりれんげ》を添えて持って来て下さるたんびに、お代りのいるほど食べた――死なないって証拠のように。そうしては柔かい枕《まくら》をして母様が手づから拵えたツギハギの丹前を掛けて横になった。枕もとには母様が嫁入の時に着たキモノの絹の小さなキレや、母様がずっと昔、まだ桃割を結ってた時分の、他処行《よそゆき》のお羽織の紺青色のキレがあった。まだまだお祖母《ばあ》さんのキモノの柔かい鼠色《ねずみいろ》のキレや、春さんののであったピカピカ光る桃色ののや、父様が若かった男盛の頃《ころ》のネクタイだった條《すじ》のあるのや、藍色《あいいろ》ののや黄色いのもあった。病に疲れてものうく、眠《ね》む気《け》がさして、うっとりとして来るにつれて、その嫁入衣裳のキレは冷たい真白《まっしろ》な雪に変る。すると橇《そり》の鈴の音が聞えて来る。
隅っこの方に小さな教会のついて居るクリスマスカードが見える。その教会の塔は凍って居たけれど、その窓はクリスマスの輝きで明るく暖かかった。
つぎに紺青色のは空であった。
そして、それを見て居ると、小鳥や、星や、三月|弥生《やよい》のことなどが思い出されるのであった。
もしお祖母《ばあ》様ののであった鼠色《ねずみいろ》のキレに眼《め》を移すならば、緑色だった空は忽《たちま》ち暗くなって雨が降って来る。
けれどもお春さんののであった桃色のキレや、父様のだった藍色ののや黄色のを見さえすれば、すぐに花が咲いた、お日様がまた輝くのでした。
やがていろんな色がごっちゃになって、こんがらがってしまう、蒲公英《たんぽぽ》がちゃらちゃらと鳴ったり、橇の鈴や菫《すみれ》が雪のなかで花を開いたり。そしてあなたは眠ります。その眠りが小さな子供を健康にするのでした。
2
春が来た。
桜の枝には蜂《はち》と風とが音《ね》を立てて居る。庭にはあなたと母様と二人きり白い花弁が雪のように音もなく散りかかる。
小鳥は朝の輝きのうちに囀《さえず》っていた。
あなたは躍り、笑い、且《かつ》歌った。
あなたの大きくみひらいた眼には、果てなき大空の藍色と見渡す草原の緑とが映り紅を潮《さ》した頬《ほお》には日の光と微風《そよかぜ》とが知られた。
「母様見て御覧なさい、坊やが飛上りますよ」
「まあ」
「今度は逆立ち」
「まあ、お上手だこと」
「母様、坊やは大きくなってから何になるか知ってますよ」
「何になるの」
「曲馬師になるの」
「まあ」
「大きい白い馬に乗って、ねえ母様」
「まあいいことね」
「そしてお月様なんか飛越しっちまうんだ」
「お月様を、まあ」
「ええお月様を、見て御覧なさい」と言ってあなたはそとにあった熊手《くまで》の柄を飛越えた。
それがお月様を飛越す下稽古《したげいこ》でした。
「けども坊やは曲馬師にはならないかも知れないの、きっと、ねえ母様」
「曲馬師にならないって」
「ぼくは、ジョージ、ワシントンのように大統領になるの、父様がなれるっていいましたもの、なれるでしょうか、え、母様」
「そうね、なれましょうよ、何時《いつ》か」
「だけども次郎坊《じろうぼう》なんかなれやしませんね、母様」
「何故《なぜ》次郎さんはなれないの」
「だって次郎坊は約束してもすぐ嘘《うそ》いうんだもの。ぼくは言わないの、ジョージ、ワシントンも言わなかったから」
「そうそうその方がいいんですよ、曲馬師と大統領とはまるで較《くら》べものになりません」
「ぼくは母様、ぼくきっと大統領になりますよ」
「まあいいこと、屹度《きっと》なるんですよ」
母様は離れで縫物を始めなさる。
「母様」
「はあい」
「今から歌を歌いますよ」
ほどよい庭へ真直《まっすぐ》に立ち、踵《きびす》を揃《そろ》へ両手を真直に垂れて「気を付け」の姿勢であなたは歌いはじめた。
[#ここから4字下げ]
天はゆるさじ良民の
自由をなみする虐政を
十三州の血はほとばしり
[#ここで字下げ終わり]
「もう少し静かにお歌いなさいな」と母様が仰言《おっしゃ》った。
[#天から4字下げ]天はゆるさじ良民の……
「それじゃあ聞えやしないわ」と母様はお笑いになった。あなたはちょっと、妙な笑いかたをしてまた声を張りあげる。
[#ここから4字下げ]
自由をなみする虐政を
十三州の血はほとばしり
ここに立ちたるワシントン
[#ここで字下げ終わり]
「まあお上手だねえ」と母様は仰言《おっしゃ》る。
「さあ今度は母様の番だよ。母様何かお噺《はなし》」
「お噺」
「ええあの菫《すみれ》のお噺」
「菫の」といって母様は、夢見るように針の手をとめて、
「青い青い菫が――」
「空のように青いのねえ、母様」とあなた
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