ルを買つてきた。帶は臙脂にガランスとシトロンの亂菊模樣のついたのを締めさせて、曇日の合歡《ねむ》の葉影にほのかな淡紅の花をおいた背景で描いた。そのモデルの娘をお光と呼んだと思ふが、その繪が出來上つてからか、今少しといふ所であつたか、お光は良縁があつて結婚するために、急に私の畫室からいつてしまつた。その時から五年ほど經つて、神戸で個人展覽會をやつた時、會場であつた青年會館の下の白い道を歩いてゐると、五月のはじめで、パラソルを深くさして歩いてくる女のキモノが遠目にもすぐに「あれだな」と思はせた。しかし「あれ」といふのが「どれ」だかはつきりしたのではない。といふのは、あのネルのキモノを彼女が暇をとつた時に呉れてやつたのを、私は忘れてゐたが、自分で選んだ品物だつたからすぐに好尚の感覺がただ「あれだ」とおもはせたらしいのだ。
近づいた女がパラソルをさげてお辭儀をした。私はまだ思ひ出せない。
「…………」
「お光です」
「ああさうだつたね」
で、やつとそのネルとお光とのつながりがとれてきた。帶もそのままあれだつた。
何故あれを着てゐるのだらう。ただ、今が季節だからだらうか。あなたの記念ですから、などといふ心持でないことは心安いが、こんな着古しをきてゐる彼女は、いまあまり豐かに暮してゐないのだらうか。私は「それ」を見ないやうにして話した。
「あれからどうしたの」
「ま、ゆつくりお話しますわ。今朝、先生の展覽會のあることを主人からきいて、いま飛んできた所ですの。今晩主人とお宿へでも伺はせて頂きたいと思ひますの、およろしいでせうか」
こんな風に書き出すと、ネルの話も盡きさうにない。
[#改頁]
兩國夜景
揃ひの浴衣は、染違ひに半幅に筑波山をかさねて水に映つた心持の繪柄、半幅には、
[#ここから2字下げ]
筑波根を流して涼し隅田川
[#ここで字下げ終わり]
と龍耳宗匠の句を染めぬいたものだつた。
船宿の女房は越後上布に唐繻子の引かけ帶ですらりと立つたものごしが、柳のやうで、柳橋の上に舟をもやつて、これから花火舟を出す間を、梅村屋の二階で潮時を待つてゐる[#「ゐる」は底本では「ぬる」]のだつた。
松二郎は、何かたよりなく一座の會話からはなれて川添の方の二階の欄干に身を寄せて、今しも兩國へ兩國へとくりだす花火船を見るともなく眺めてゐた[#「ゐた」は底本では「ぬた」]。昨夜夜を徹して細君の縫つてくれた浴衣が何か身に添はぬつれない心持を感じながら袖を引張つて見た。
「みんな幸福なんだ」
花火船の客はもう萬世のあたりできこしめしたらしく隣りの船の若い女に戲談を投げかけてゐる。
音がするたびに、川にも岸にもまつ黒に埋まつた人間が一樣に顏をあげて空を見る。松二郎も附合のやうに空を見あげた。赤い達磨がふわりふわりと飛んで行く。松二郎は達磨が憎らしかった。
お縫さんは、次の間でいましも浴衣に着換へて、時藏の夏祭の女房のやうに團扇で裾をおさへて、あでやかに、しかし美しさを惜し氣もなく笑ひながら、皆の前にきて坐つた。
お縫さんはなんにも知らないのだ。松二郎が人知れず戀してゐることも、自分のあたらうつくしさも。
「さあ船へ乘る前に一首づつ作つて下さい」
幹事がさう言つて促した。
[#ここから2字下げ]
廣重のあさぎの空についついと
[#ここから4字下げ]
のぼる花火をよしと思ひぬ
[#ここから2字下げ]
田之助に誰やら似たり薄墨の
[#ここから4字下げ]
山谷をいづる影繪舟かな
[#ここで字下げ終わり]
これはお縫さんの歌である。なんという威勢の好い歌であらう。田之助はほつそりした美男であつたのに、私はこんなに丸つこく肥つてゐる。松二郎は身にあはぬ、浴衣の袖を今更のやうに引張りながら考へるのだつた。
[#ここから2字下げ]
わが戀はあさぎほのめくゆふそらに
[#ここから4字下げ]
はかなく消ゆる晝の花火か
[#ここから2字下げ]
細腰の紅《あけ》のほそひもほそぼそに
[#ここから4字下げ]
消ぬがにひとの花火見あぐる
[#ここから2字下げ]
ほのかなる浴衣の藍の匂より
[#ここから4字下げ]
浮き名のたたばうれしからまし
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
東京地圖
東京に住んでゐては、東京のどこが好いのか、なぜ好きなのか解らないが、東京の新聞も入らないやうな山間の温泉場などへいつてゐて、雨に降りこめられて寫生にも出られないし、持つて來た本も讀みつくした時など、どうかして東京地圖など熱心に見てゐることがあります。なかなか懷しいものです。この町にもこの町にも住んだことがある、さう思ひながら、その時の生活や、生活の感覺を思ひ出します。
物心がついてからずつと東京に住んだ私にとつては、一片の東京地圖は、實に有機的な私の人文科學史です。いろんないやな記憶さへ、自分を憐む材料にさへ役立ちます。
少年の頃、鹽原の奧で桐の空の咲いた畑の端に腰かけて、電車の往復切符を、ポケツトから見出して、東京へ寄せる感傷的な詩をかいたことを思ひ出します。
さてどこが好きなのか、何故好きなのか、理窟はありません。おそらく日本の國土も、異國の旅へ出たらこんな風に思ひ出されることでせう。
[#改頁]
夏の街をゆく心
少くも夏の街を享樂しようと思ふには、目的や約束があつてはいけません。といふのは、銀座のさえぐさへ寄つて絹のレースの肌着を買ひ、はいばらへいつて小菊を五帖買ひ、太郎の靴を三越へ註文して菊屋の※[#「○の中に五」、47−6]のかまぼこを買つて、明治屋でサーヂンだのチーズだのオートミール、バタ、マカロニ等等等を買ひ込んで、ついでに田屋へ寄つて、あの人の帽子を見立てたり、コテイのシヤボンも買はなければならぬほどしこたまプログラムを持つてゐては、ゆつくりアイス・クリームを呑む氣にもなれないではありませんか。
しかし、腕時計をちよい/\見ては、プログラムをはかどらせて、電話で家から自動車を呼んで、事務的に用をたして歩くことの好きな貴婦人には、まあ夏の街をゆく心持などには御用がないはずです。
夏の街を享樂する人は、贅澤に時間を使用することを知つてゐる人です。目的や約束がないのだから、すいた電車が來るのを待つか、遠いところでなければ、少し廻り道してもぶらりぶらりと歩くことです。
震災後東京も、散歩するに好い街はほどんどなくなつてしまひました。我々の散歩地は必ずしも睛れやかな歩道でなくても、表通りでなくても好いのです。それよりも仲通りの靜かな、あんまり繁昌しない取殘された老舖や、風雅なくぐり門のある裏町は好もしいものです。
文明開化當時、煉瓦地と呼ばれた銀座通りの柳もなつかしいが、裏通りの金春とか、河岸からあの邊一帶はよかつた。采女橋を渡つてから築地、三一教會の四つ角か築地ホテルのあたりの街のたゞずまひは、路の果てにちらちら水が見え、赤い煉瓦の建物の間を、灰色の帆がぬうと通つてゆくのです。唐人髷に結つた中型のお七帶かなんかをしめた下町娘が小走りに、明石町から箱崎の方へ橋を渡つてゆく風景は、今は昔です。
鎧橋から海運橋、堀どめと、あの汚い河だが水に青ざめた影を落す並藏は、夏のゆふかたになくてならない背景でした。
日本橋の兩仲通り、深川の富岡門前、坂本町、神田旅籠町から大時計のあたり、お成道はいまもおもしろいと思ひます。錦繪を賣る店も商賣になるものと見え、震災後はローマ字の商牌《かんばん》を屋根にあげ、店口は洋風に飾窓などつけてやつてゐます。隣がラヂオの店でその隣がポンプ屋、さうかと思ふと電氣屋の隣りに、昔ながらの黒燒屋が立派に營業してゐる[#「ゐる」は底本では「ぬる」]。百年の昔には、婦女子のために江戸の土産として一文か二文で賣つてゐた江戸繪が、いまは何千圓何萬圓の價を持つて商はれるのも不思議だが、黒燒屋が土藏にかしや札も貼らないで、ラヂオの店と並んでたつてゆくのも、おもしろい時代ではありませんか。
妻戀坂から天神下、池の端七軒町から、團子坂、日暮里は、好きな街だつたが、いまわづかに七軒町が殘つたばかりだ。
萬世橋から講武所を上つて、お茶の水橋から飯田橋、あの河岸と牛込見附の荷揚場はいまでもなか/\おもしろい所だ。「あたくし東京でこの道が一番好きです」と、ある婦人が言つたのを聞いて、私は、その婦人にしてこの砲兵工廠前の荷揚場のスケツチ畫風な面白味がわかるのかなと思つて「どんな風に好いのですか」とたづねると「道が好いでせう、だから自動車がゆれないで大好き」といふのだ。なるほど宮城前廣場のは、自動車散歩者にとつては玄海灘であるわけだ。赤坂の東宮御所前などは自動車で走らせるには快適な道だらう。東京の名所も、愉快な街もかうしてだんだん變つてゆくのだ、かうなつてくると、清水谷公園へゆくあの昔めかしい辨慶橋も、自動車散歩者にとつては、是非、石の橋でなくてはなるまい。あすこには何といふ町だつたか、赤坂帝國館の裏の虎屋といふ名代の菓子屋のある町から田町へかけても好い街だ。
それから四谷見附の麹町十何丁目かのあの一丁ばかりの間の裏通りも好い。いつか有島生馬さんと庭の空井戸にかける竹の簾を註文にいつて、生馬さんに注意せられて見た藥屋もよかつた。
あんな家を寫生して殘しておかないと、もう間もなく見られなくなるだろう。
市ヶ谷見附から入つて三番町へゆく電車通りに一軒菓子屋がある。何とか饅頭をうる家で、窓飾に古代人形を出してある家で、あの人形が好きでよく、饅頭を通りすがりに買ひにいつたが、震災でどうなつたかと案じてこのほどいつて見たら、店つきは變つてゐたが人形は無事であつた。よそごとならずうれしくてそこの娘さんにそのことを話をしたほどだつた。人形といへば淺草の雷門の四つ角から並木の方へ二三軒いつた所に、三太郎ぶしを賣る家に、黄八丈のキモノを着せた人形があつたが、あれはどうなつたらう。
淺草も變つた。仲店の、あれも虎の門や上野の博物館や銀座や十二階とおなじ時分に出來たと思はれる赤煉瓦の長屋の文明開化趣味も、もうなくなつた。いま新しく建築中だがこんどはどんなものになるだらう。安い西洋菓子のやうな文化建築をデコデコと建て並べなければ好いと案じられる。仁王門のわきの久米の平内から辨天山のあたりは、やはり昔ながら、木立が芽を出して、銀杏の木も火にも燒けずに青い葉をつけてゐる。觀音堂の裏の、江崎寫眞館も赤煉瓦だけ昔のまま殘つたがあのあたりはすつかり變つたものだ。どぶを隔てた金田の前の廣い道も、どぶのわきの柳の並木も、燒かれて伐られて昔の面影はない。花屋敷のうらから十二階へ拔ける。裏路のわきの泥溝も今は跡がない。
このあたりを歩く男も女も、千種萬樣で、麻の葉の赤いメリンスの單衣に唐人髷を頭にのつけて、鈴のついた木履《ぼくり》をはいて眉を落した六つばかりの女の子の手を引いてゆく耳かくしをゆつた姉らしい女は女給ででもあらうか、素足の足の裏が黒い。
田村屋かちくせんあたりの小紋風な浴衣をきた好い女房が、これはまた何んとしたことかドロンウオークの長襦袢をきてゐる。下駄も鹿嶋屋がなくなつてからこのかた、この女も蝶貝のえせ表現派模樣をちりばめたごてごてしたものをはいて歩いてゐる。
このあたりの三味線を奏する職業婦人はさすが土地柄だけに、この種の婦人特有のあの襟をにべもそつけなくきつちり首へ卷きつけるやうに合はせるくせがなく、肌をほの見せてゆるやかに襟を合せてゐるのは好もしい。
日のうちの洋服をぬいで、銀座の散歩に仕立おろしの中形浴衣を引かけた十六七の娘はまるで日本キモノをアメリカ娘がつんつるてんに着たといつた恰好である。襟をぐつとあけて乳の上を帶でしめつけ腰帶に申わけに胃袋の上の肋骨のとこへバンドのやうにしめて、そこから下はどぼんとまるでスカートを引いたやうにキモノを着たところは、少しもをかしくない、發育の好い肉體を、從來の着物が表はし得なかつた包み方で、實に新しい感覺を持つたものだ。これは洋服が表はすことの出來ない、日本のキモノが持つ
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
竹久 夢二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング