峰や、鳥海山や、彌彦山は今見ても好からうと思はれる。
山は成長するものか、衰退するものか知らないが、文晁の名山畫譜を携へてあの山々を見較べて歩いたら面白からうと思つた事がある。文晁畫譜は彼が初期の作であらうか、非常に寫實に畫いてゐるから、日本畫の弊として筆勢らしいものがいくらか山の特性を失つてゐるかも知れないとしても、克明に寫生して後世に殘したものは有難いと思ふ。
いつの夏であつたか、加賀の白山つゞきの藥王山の麓にある、湯涌という温泉にゐたことがある。ある日曜日に金澤から見舞に來て呉れたN君と、晝飯をすまして宿の二階で、參謀本部の地圖を展げて見てゐると、湯涌村から地圖の上で二三寸山の方へ入るともう路が盡きてゐる。參謀本部の地圖に描いてない位だから人跡未到の地だ。
「一つ探險に出かけませうか」
そんなことを言つて出かけた。
地圖を見ながら、二里――或は三里ともまだ上がらないうちに果して路は盡きてゐる。地圖によると左右に二つばかりの峰を越えて藥王山があるわけだつた。左手の方は白山まで地圖の上で七八寸ある。
「どちらへ行つたものだらう」
獨歩は「武藏野」の中に「路がわからなかつたらステツキを立てゝそれの倒れた方へゆけ」と書いてゐたが、吾々は白山の方へ向つて歩いた。さう書くといよ/\探險らしいが、登山らしい何の用意もなかつたことだし、實は、自分達は湯涌へ流れ落ちてゐる川が、今自分達の歩いている峰の左手は谷にある筈だから、どんなに間違つても川の方へさへ辿りつけば路を迷ふ氣遣はあるまいといふ、用意周到な冒險であつた。
それがN君は、親讓りの時計についた磁石を取出して方向を見たりして、ひとかどの冒險らしく振舞つたことが、その時は、さほどをかしくも不自然だとも思はなかつた。
昨夜からひどく降つた雨も、今朝からすつかり上つたけれど、雨の多い山國の初秋のことで、鼠色の雲が空を閉ざし、白い雨雲が國境の方の峰から走つて來ては、足もとをかすめては谷を越えて、向ふの峰へ飛んでゆくのが、冒險家に一入の風情を添へたのだつた。
一つの峰を越えて次の谷へかゝつた時には、足許がかなり危かつた。雨上りの岩角は滑るし、土の肌の見えないまで落ち積つた枯葉は、ねと/\と靴を没して、歩き辛いこと夥しい。はじめのうちは、珍らしい蕈や、見たこともないやうな草花を寫生したり、採集したりしたが、今はもう、
前へ
次へ
全47ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
竹久 夢二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング