、その頃小石川の原町にあつた小林鐘吉氏の研究所へ通つたが、何でも三日ほど通つて、ゴムのかはりに使ふパンを三斤ほど食つただけでよしてしまつた。やはり多勢の人中で一所にわいわいやるのは私に性に合はなかつたらしい。
 岡田先生は、その時にも仰有るのだつた。
「正規に學校を出て、世の中へ出てゆくのはやさしいが、君の道は苦しいからその覺悟で元氣を失つてはいけない」
 果して私の道は苦しかつた。今でも苦しい。その苦しみの半面は、若い中學生諸君に話しても、つまらないし、また解つても呉れまいが、半面の苦しみは、つまり修業の苦しみ、製作の上の苦しみだから解つてもらへるかもしれない。
 自分はこれから畫論をはじめるつもりはないから、修業の上の思ひ出話を一つ二つして見よう。
 その頃、文展の第一回の展覽會であつたか、白馬會であつたか、利根川の上流をかいたべらぼうに大きな畫や、變な顏の赤白い女が花の前に立つてゐる畫が評判であつたが、あんな感覺も表情もない畫がどうして好いのかわからなかつた。それでも臆病な畫學生は誰にも言はないでゐた。しかし青木繁氏の「わだつみのいろこの宮」と藤島武二氏の「不忍池畔納涼圖」には感心した。今でも藤島氏は、尊敬もしてもゐるし、日本でほんたうの美人畫のかける人はあの人だとおもつてゐる。
 ある時、銀座の夜店で、獨逸の「シンビリシズム」といふ雜誌を買つて、複寫のすばらしい繪を手に入れた、その山の畫はよかつた。今おもふとたしか、あれは、イタリアのセガンチニイだつたらしい。これにくらべると、その頃評判だつた「白馬山の雪景」や「曉の富士山」なんか影がうすくてとても見られないと思つたが、これもやつぱり誰にも言はないでゐた。
 そんなことが獨學者には何かと不便が多かつた。セガンチニイは今でこそ日本のどんな畫學生でも知つてゐるが、その頃はたづねる友人もなかつた。その頃「ステユデイオ」なんて雜誌はどうもきらひで、獨逸の「ユーゲント」の古本を横濱から買つてきては、好きな畫をさがしてゐた。ヴエラスケスやチチアンやダ・ヴインチやミレーの畫集のシリーズが手に入るやうになつてから、非常に心強くなつてきた。といふのは日本のエライ人の中でも、ほんとうに尊敬出來る人と、エラクもなんともなくて、たゞ世間でエライ人があることがわかつたからだ。何故なら、外國のエライ人は、日本のエライ人よりも、ほんたうの
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