。
「それじゃ往《い》って来るぞ」
そう言って父はもうボートを卸して、暗い波の上に乗り出した。
「じゃ摩耶さん、あたしも村の方へ行ってきてよ。霧笛は大丈夫?……しっかり頼んでよ」
「日本男児だ!」
「本当にお父さんはじめ、難船した人達のためなのよ。しっかりやって頂戴《ちょうだい》」
姉は流石《さすが》に女の気もやさしく、父の身の上、弟のことを気づかい乍《なが》ら、村の方へ走って行った。この燈台《とうだい》から村へは、一里に余る山路である。
父のボートは暗い波と烈《はげ》しい風とに揉《も》まれ乍ら、濃霧の中《うち》を進んだ。やがて、船の最後と思われる非常汽笛の音をたよりに、つかれた腕に全力をこめて、ボートをやった。行って見ると、船の破片にすがった半死の人が五人だけ見えた。
一人一人ボートへ助け入れたが、どの人も口を利くどころか、眼《め》さえ見えぬようであった。ボートの舳《かじ》を返して燈台《とうだい》の方へ漕《こ》いだが、霧は愈《いよいよ》深くなり、海はますます暗くなり、ともすれば暗礁に乗り上げそうであった。半死の人を乗せたボートの重みと、労《つか》れ切った腕にとったオールは、とかく波にさらわれ勝《がち》であった。
ここに燈台の櫓《やぐら》では、父のため、多くの難船した人のため、摩耶《まや》はあらん限りの力で霧笛《きりぶえ》を吹いた。
しかし今年十二の少年の力では容易でない。忽《たちま》ちへとへとに労れてしまって、霧笛の音は、とぎれとぎれになった。
しかしいま吹きやめたら、父はどんなに困るかも知れぬ。そう思うと死んでも止《や》められない。ポーと吹いては休み、ブウと吹いては休んだ。しかし父のためだ! 多くの人人のためだ! それでこそ日本男児だ! 吹く吹く、死んでも吹く……
また海の上では、かすかながらも鳴っている霧笛の音を聞いては、父は新しい力を腕にこめて、ボートを漕いだ。
漸《ようや》くにして父のボートが汀《みぎわ》へたどりついた。折もよし、村の人人は須美《すみ》に連れられて走って来た。
遭難の人人の手当は、村人にまかせて、須美は急いで櫓の上にあがって見た。摩耶は霧笛を唇にあてたままそこに死んだように倒れていた。
「摩耶ちゃん、摩耶ちゃん」
姉は泣声で呼んだ。すると勇敢なる日本男児はすぐ甦《よみがえ》った。
五人の遭難者も死んではいなかった。
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