からないや。だが、こいつは、どの点から考えても、まったく有り得べからざる出来ごとだて。第一パンはよく焼けているのに、鼻はいっこうどうもなっていない。さっぱりどうも、俺には訳がわからないや!】イワン・ヤーコウレヴィッチはここで黙りこんでしまった。警察官が彼の家を捜索して鼻を見つけ出す、そして自分が告発されるのだと思うと、まるで生きた心地もなかった。美々しく銀モールで刺繍をした赤い立襟や佩剣などが、もう眼の前にちらついて……彼は全身ブルブルとふるえだした。とうとう下着や長靴を取り出して、そのきたならしい衣裳を残らず身につけると、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナの口喧ましいお説教をききながら、彼は鼻をぼろきれに包んで往来へ出た。
 彼はそれを、どこか門の下の土台石の下へでも押し込むか、それとも何気なくおっことしておいて、つと横町へ外《そ》れてしまうかしたかったのである。ところが、間の悪いことに、ともすれば知人に出っくわし、相手からさっそく【やあ、どちらへ?】とか、【こんなに早く誰の顔を剃《あた》りに行くんだね?】などと訊ねられることになったため、イワン・ヤーコウレヴィッチは、如何《いかん》とも好機会をつかむことができなかった。一度などは、まんまと一物をおっことしたのであるが、巡査《おまわり》がまだ遠くの方から戟《ほこ》でもってそれを指し示しながら、「おい、何か落っこちたぞ、拾いたまえ!」と注意したので、イワン・ヤーコウレヴィッチはまたもや鼻を拾いあげて、しょうことなしにかくしへ仕舞いこまなければならなかった。やがて、大小の店が表戸をあけはじめ、それにつれて往来の人通りがつぎつぎとふえて来る一方なので、彼はいよいよ絶望してしまった。
 そこで彼は、何とかしてネワ河へ投げこむことは出来ないだろうかと思って、イサーキエフスキイ橋へ行ってみようと肚をきめた……。ところで、このいろんな点において分別のある人物、イワン・ヤーコウレヴィッチについて、これまで何の説明も加えなかったことは、いささか相済まない次第である。
 イワン・ヤーコウレヴィッチは、やくざなロシアの職人が皆そうであるように、ひどい飲んだくれで、また、毎日他人の頤《あご》を剃っているくせに、自分自身の鬚はついぞ剃ったことがなかった。イワン・ヤーコウレヴィッチの燕尾服(イワン・ヤーコウレヴィッチはけっしてフロックコートを着なかった)はまだらであった。つまり、それははじめ黒であったが、今ではところ嫌わず茶色がかった黄色や灰色の斑紋だらけになっていたのである。それに襟は垢でてかてかと光り、ボタンが三つともとれて、糸だけ残っているという為体《ていたらく》であった。またイワン・ヤーコウレヴィッチは、大の不精ものであったから、八等官のコワリョーフは彼に顔をあたらせる時、いつもこう言ったものである。「イワン・ヤーコウレヴィッチ、君の手はいつも臭いねえ。」するとその返事がわりにイワン・ヤーコウレヴィッチは、「どうして臭いんでしょうな?」と問い返す。「どうしてか知らないけれど、どうも臭いよ、君。」そう八等官が言うと、イワン・ヤーコウレヴィッチは嗅ぎ煙草を一服やってから、腹いせに八等官の頬といわず、鼻の下といわず、耳のうしろといわず、あごの下といわず――一口にいえば、ところ嫌わず手あたり次第に、石けんをやけに塗りたくったものである。
 さて、この愛すべき一市民は、今やイサーキエフスキイ橋の上へやって来た。彼は何よりもさきにまずあたりを見廻してから、よほどたくさん魚でもいるかと、橋の下をのぞくようなふりをして、欄干によりかかりざま、こっそり鼻の包みを投げ落とした。彼はまるで十*プードもある重荷が一時に肩からおりたように思った。イワン・ヤーコウレヴィッチは、にやりとほくそえみさえした。そこで彼は役人連の顔を剃《あた》りに行くのを見合わせて、ポンスでも一杯ひっかけてやろうと、【お料理喫茶】という看板の出ている家の方へ足を向けたが、その途端に、大きな頬髯をたくわえた堂々たる恰幅《かっぷく》の巡査が、三角帽をいただき、佩剣を吊って、橋のたもとに立っているのが眼についた。イワン・ヤーコウレヴィッチはぎくりとした。ところがその巡査は彼を指でさし招いて、「おい、ちょっとここへ来い!」と言う。
 イワン・ヤーコウレヴィッチは礼儀の心得があったので、もう遠くの方から無縁帽《カルトゥーズ》をとって、小走りに近よるなり、「はい、これはこれは御機嫌さまで、旦那!」と言った。
「うんにゃ、旦那もないものだぞ。一体お前は今、橋の上に立ちどまって何をしちょったのか?」
「いえ、けっして何も、旦那、ただ顔を剃《あた》りにまいります途中で、河の流れが早いかどうかと、ちょっとのぞいてみましただけで。」
「嘘をつけ、嘘を! その手で誤魔化すこ
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