がありますかね? 御覧のとおりですから、どうしても掲載していただかねばなりません。ほんとに恩にきますよ。それに、こんな御縁でお近づきになれて、大変うれしいんです。」少佐は、この言葉でもわかるとおり、今度は少しおべっかを使う気になったのである。
「掲載するのは、無論、何でもありませんがね、」と係員は言った。「しかし、そんなことをなすっても、何のお利益《ため》にもなるまいと思いましてね。それよりも、いっそ、筆のたつ人に頼んで、この前代未聞の自然現象《できごと》を文章に綴って、それを【*北方の蜂】にでもお載せになったら、(と、ここでまた彼は嗅ぎ煙草を一服やって、)それこそ若い者の教訓《ため》にもなり、(そう言って、今度は鼻をこすった。)また大衆にも喜ばれることでしょうから。」
 八等官はがっかりしてしまった。彼が新聞の下の方の欄へ、ふと目をおとすと、そこに芝居の広告が出ていて、美人として評判の、さる女優の名前に出っ喰わしたので、すんでのことに彼の顔はほころびかかり、その手は*青紙幣《あおざつ》の持ち合せがあったかどうかと、かくしの中をまさぐっていた。というのは、コワリョーフの考えによれば、およそ佐官級の者は上等席におさまらなければならないからであった。しかし、鼻のことを考えると、何もかもがおじゃんであった。
 広告係の方もコワリョーフの苦境にはつくづく心を打たれたものらしかった。相手の悲しみを幾分でも慰めてやろうと思い、せめて言葉にでも同情の意を表わすのが当然だと考えて、「まったく、飛んだ御災難で、ほんとにお気の毒です。嗅ぎ煙草でも一服いかがです? 頭痛や気鬱を吹き払いますし、おまけに痔疾にも大変よろしいんで。」こういいながら広告係は、コワリョーフの方へ煙草を差し出して、器用にくるりと蓋を下へ廻した。その蓋には、ボンネットをかぶった婦人の肖像がついていた。
 この不用意な仕草がコワリョーフをかっといきり立たせてしまった。「人をからかうにも場合があるでしょう。」と、彼は憤然として言った。「御覧のとおり、わたしには、ものを嗅ぐ器官がないのですよ! ちぇっ、君の煙草なんか、くそ喰《くら》えだ! もうもう、こんな下等な*ベレジナ煙草はもとより、*ラペーの飛びきりだって、見るのも厭だ!」こう言い棄てるなり、彼はかんかんになって新聞社を飛び出すと、そのまま分署長のところへ出かけて行った。
 コワリョーフがそこへやって行ったのは、ちょうど分署長が伸びをして、大きなあくびを一つして、【ええっ、ぐっすり二時間も寝てやるかな!】とつぶやいた時であった。だから、八等官の入来が時機を得ていなかったことは予測に難くない。この分署長は、あらゆる美術や工芸の大の奨励家であったが、何よりも政府《おかみ》の紙幣に愛着を持っていた。【これに限るよ。】そう言うのが彼の口ぐせだった。【これに優るものはまずない。餌もいらねば、場所塞ぎにもならず、いつもかくしにおさまっていて、おっことしたとて――壊れもせずさ。】
 分署長ははなはだ冷淡にコワリョーフを迎えると、食事の後で審理をするのは適当でないとか、腹を満たしたら、すこし休息するのが自然の掟《おきて》だ(こう言われて八等官は、この分署長は先哲の残した箴言《しんげん》になかなか詳しいんだなと見てとった。)とか、ちゃんとした人なら鼻を削ぎ取られるなどということはあり得ないと言った。
 まさに急所を突かれた形である! それにここでちょっと指摘しておきたいのは、コワリョーフがひどく怒りっぽい人間であったということである。自分自身のことならば、何を言われてもまだ我慢ができたけれど、地位や身分に関しては、断じて許すことができなかった。芝居の狂言などでも、尉官に関してなら、すべて大目に見て差し支えないが、いやしくも佐官級の人物に楯つくなどという場面は絶対にいけないという考えを持っていた。で、その分署長の応対ぶりにすっかり面喰った彼は、ブルッと首を震わせると同時に、少し両手を拡げながら、自負心をこめるようにして言った。「どうも、そう、あなたの方から侮辱がましいことをおっしゃられては、まったく二の句がつげませんよ……」そして外へ出てしまった。
 彼は極度に疲れて我が家へ立ち帰った。もはや黄昏《たそがれ》であった。こうしてさまざまに無駄骨を折ったあげくに見る我が宿は、世にも惨めな、きたならしいものに思われた。控室へ入って見ると、汚れきった革張りの長椅子に長々と仰向けに寝そべった下僕のイワンが、天井へ向けて唾を吐きかけていたが、それがまたじつに見事に同じ場所へ命中するのであった。その暢気さ加減には、コワリョーフもさすがにかっとなり、帽子でイワンの顔を殴《ぶ》って呶鳴りつけた。「この豚め、いつも馬鹿な真似ばかりしてやがって!」
 イワンはとっさにが
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