ろばすやうなそのお聲といつたら! 金絲雀《カナリヤ》だ、まつたく金絲雀《カナリヤ》そつくりだ!『やれやれ、お孃さま!』さう、おれは言はうと思つたのさ。『どうか、もうそんなに苦しめないで下さいまし。でも、どうしても苦しめようと仰つしやるなら、いつそそのお美しいお手で苦しめて下さいまし。』とさ。ところが、忌々しいことに、舌めがどうしても言ふことをききをらずに、おれはやつと、『いえ、おいでではございません』と言つたのが精いつぱいだつた。令孃はおれの顏をちらと御覽になつたが、それから書物の方へ視線を移される途端に、手巾《ハンカチ》を下へお落しになつた。おれはあわてて、泳ぐやうに飛びつきざま、忌々しい嵌木《はめき》の床でつるりと足を滑らして危なく鼻柱を挫くところだつたが、やつと踏みこたへてその手巾《ハンカチ》を拾ひあげた。へつ、何といふ素晴らしい手巾だらう! 薄い生地のバチスト麻で、琥珀――まるで琥珀そつくりなんだ! それに匂ひだつて、お上品な方の持物らしく、實に奧床しい匂ひだ。ちよつとお禮を仰つしやつて、微かににつこりされると、匂やかな朱唇があるかなしに動いただけで、そのまますうつと行つてしまはれた。おれはそれからなほ一時間ばかり坐つてゐたが不意に從僕が入つて來て、『アクセンチイ・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、もうお引取り下さい。旦那樣はもうお出ましになりましたよ。』とぬかしやがる。どうもこの從僕風情くらゐ我慢のならぬ手合はない。いつも玄關に頑張つてゐくさるだけで、碌すつぽ挨拶ひとつしやがらない。それだけならまだしも、一度など、あのどつ畜生の一人めが、腰も浮かさないで、嗅煙草は一服いかがでなんぞと來やがつたものだ。人を何だと思つてやがるんだ、下種《げす》の頓馬野郎め、これでも歴乎《れつき》とした官吏で、抑も貴樣たちとは身分が違ふぞ! だがどうも仕方がないから、おれは帽子を手にとり、マントもつひぞこの手合が着せてくれた例しがないから自分で着て、そとへ出た。自宅《うち》では大方寢臺の上でごろごろしてゐた。それから非常に美しい詩を一つ寫した。『いとしき人よ、ひととき見ざるに、はや一年《ひととせ》も相見ざる心地こそすれ。わが生を呪ひつつ、そもわれは生くべきや、かくわれは言ひぬ。』これは屹度プーシキンの作だらう。夕方、マントにくるまつて、あの方のお邸の玄關さきま
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