のついたのであろうが、猟虎《らっこ》のついたのであろうが、綿いれのであろうが、浣熊《あらいぐま》や狐や熊などの毛皮外套であろうが、要するに、およそ人がその身をおおうために考えついた毛皮やなめし皮なら何でも剥ぎ取ってしまうという噂であった。某局の官吏の一人は目のあたりその幽霊の姿を見て、たちどころにそれがアカーキイ・アカーキエウィッチであることを看破した。しかしそのためにかえって非常な恐怖に襲われて、後をも見ずに遮二無二《しゃにむに》、駆け出してしまった。それゆえ、死人の顔をはっきり見とどける訳には行かず、ただ死人が遠くから指でこちらを脅かしているのをみただけであった。かくて、あらゆる方面から、九等官あたりならまだしも、七等官の肩や背中までがしばしば外套を剥ぎとられるので、すっかり感冒の脅威にさらされているという愁訴の声がのべつに聞えてきた。警察では、どんなことがあっても、生きたものであろうが死んだものであろうが、その幽霊を逮捕して、他へのみせしめに、もっとも手きびしい方法で処罰しようという手配がついていて、それがもう少しで成功するところであった。というのはほかでもない、某区の一巡査がキリューシキン小路で、かつてフリュート吹きであったある退職音楽師の粗ラシャの外套を剥ぎとろうという犯行の現場で、まさにくだんの幽霊の襟がみを、完全に取って押えようとしたのである。その襟がみをつかみざま、彼は大声でわめいて二人の同僚を呼び、その二人に幽霊を押えていてくれと頼んで、自分はほんのちょっとの間、長靴の中をさぐって、樺の皮の嗅ぎ煙草入れを取り出すと、これまでに六度も凍傷にかかったことのある自分の鼻に、一時、生気をつけようとしたのであるが、おそらくその嗅ぎ煙草が死人にさえ我慢のならぬ代物《しろもの》だったのであろう――巡査が指で右の鼻の穴をふさぎ、左の鼻の穴で半つかみほどの嗅ぎ煙草を吸いこもうとするやいなや、突然幽霊がくしゃみをしたため、三人の巡査はいずれも目潰しをくわされてしまった。そこで彼らが拳で眼をこすっているすきに幽霊は影も形もなく消えうせていた。で、はたして幽霊が彼らの手中にあったのやらどうやら、それさえとんとわからなくなってしまった。それ以来、巡査たちは幽霊に対する恐怖のあまり、生きた犯人を捕えることをさえ危ぶんで、ただ遠くから「おい、こら、さっさと行け!」などとどなるく
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