何か、お前んとこに裁《た》ちぎれがあるじゃろうが……」
「そりゃあ、裁ちぎれは探せばありますよ、布きれは見つかりますがね、」とペトローヴィッチが言った。「でも、縫いつけることができませんや。何しろ、地がすっかりまいってますからねえ。針など通そうものなら――ずだずだになっちゃいますよ。」
「ずだずだになったらなったで、またすぐ補布《つぎ》を当ててもらうさ。」
「だって、補布の当てようがないじゃありませんか、第一もたせるところがありませんや。なにしろ土台が大事ですからねえ。これじゃあラシャとは名ばかりで、風でも吹けば、ばらばらに飛んじゃいまさあ。」
「まあさ、とにかく、ひとつ縫いつけてみておくれ、どうしてそんな、ほんとうにその……」
「いやだめでがす。」と、ペトローヴィッチはそっけなく言いきった。「何ともしょうがありませんよ。まるっきり手のつけようがありませんからねえ。冬、寒い時分になったら、いっそこいつで足巻でもこさえなすったらいいでしょう。靴下だけじゃ温まりませんからねえ。これもあのドイツ人の奴が少しでもよけい金儲けをしようと思って考え出しおったことですがね。(ペトローヴィッチは機会あるごとに、好んでドイツ人を槍玉にあげた。)ところで、外套はひとつぜひとも新調なさるんですなあ。」
この【新調】という言葉に、アカーキイ・アカーキエウィッチの眼はぼうっと暗くなり、部屋の中のありとあらゆるものが彼の眼の前でひどく混乱してしまった。彼はただ、ペトローヴィッチの嗅ぎ煙草入れの蓋についている、顔に紙を貼りつけられた将軍の姿だけが、はっきり見えるだけであった。「どうして、新調するなんて?」と、彼はやはり、まるで夢でも見ているような心持でつぶやいた。「わしにそんな金があるものか。」
「いや、新調なさるんですなあ。」とペトローヴィッチは、残忍なほど落ちつきはらって言った。
「じゃあ、どうしても新調せにゃならんとしたら、いったいどのくらい、その……」
「つまり、いくらかかるかとおっしゃるんで?」
「うん。」
「まあ、百五十ルーブルはたっぷりかかりますなあ。」こうペトローヴィッチは言ったが、それと同時に意味ありげに唇を引き締めた。彼はひどい掛値を吹っかけることが恐ろしく好きだった。こうして不意に相手の度胆を抜いておいて、さておもむろに、面喰ったお客がそうした言葉のあとでどんな顔をするか
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