には何かのぼろが乗っていた。彼はもう三分間ほど前から針の穴《みぞ》に糸を通そうとしていたが、それがどうも巧くゆかないので、部屋の暗さに腹をたてたり、しまいには糸にまで当たりちらして、「通りやがらねえな、こん畜生! 手をやかせやがって、この極道《ごくどう》めが!」と、口の中でぶつぶつ言っているところであった。アカーキイ・アカーキエウィッチは選りにも選ってこんなにペトローヴィッチがぷりぷりしているところへ来あわせたのはまずいと思った。というのは、彼はペトローヴィッチが少々きこしめしている時か、または彼の女房の言い草ではないが、【一つ目小僧がどぶろくに酔い潰れた】時に、何か誂えものをするのが好きだったからである。そんな場合にはたいてい、ペトローヴィッチはひどく気前よく、進んで値を引いたり、こちらの言い分を聴き入れたり、そのたんびにお辞儀をして、お礼をいったりさえするのであった。もっともその後では、いつも女房が泣きこんで来て、うちの亭主《ひと》は酔っ払っていたので、あんな安値で引受けたのだといってぐちをこぼすが、しかし十カペイカ銀貨の一枚も増してやれば、それで事なく納まるのであった。ところが今はそのペトローヴィッチもどうやら素面《しらふ》らしい、したがって人間が頑《かたく》なで容易には打ちとけず、はたしてどんな法外な値段を吹っかけるか、知れたものではなかった。それと悟るとアカーキイ・アカーキエウィッチはとっさに、いわゆる出直そうと考えたものであるが、時はすでに遅かった。ペトローヴィッチはじっと彼の方を見つめながら、その一つきりの眼をぱちぱちさせていた。それでアカーキイ・アカーキエウィッチも、しょうことなしに言葉をかけてしまった。
「やあ、今日は、ペトローヴィッチ!」
「これはこれは、旦那!」そういって、ペトローヴィッチは相手がいったいどんな獲物を持ち込んで来たのか見きわめようとして、じろりと横目でアカーキイ・アカーキエウィッチの手許をうかがった。
「時にわたしは、君のところへ、その、ペトローヴィッチ、その何だよ……」ここで知っておかねばならないのは、アカーキイ・アカーキエウィッチは物事を説明するのに、大部分、前置詞や副詞やはてはぜんぜん何の意味もない助詞をもってしたということである。また、話がひどく面倒だったりすると、一つの文句を終りまで言いきらないような癖さえあったので、
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