を通るという妙なくせがあった。そのために、彼の帽子にはいつも、パンくずだの、きゅうりの皮だのといった、いろんなくだらないものが引っかかっていた。彼は生まれてこの方ただの一度も、日々、街中《まちなか》でくり返されているできごとなどには注意を向けたこともなかったが、知ってのとおり、彼の同僚の年若い官吏などは、向こう側の歩道を歩いている人がズボンの裾の止め紐を綻ばしているのさえみのがさないくらい眼がはやくて、そういったものを見つけると、いつもその顔に狡《ずる》い薄笑いを浮かべたものである。
しかし、アカーキイ・アカーキエウィッチは何を見たとしても、彼の眼には、そうしたものの上に、なだらかな筆蹟で書きあげられた自筆の文字より他には映らなかったのである。で、もし、どこからともしれず、にゅっとばかりに馬の鼻面が彼の肩の上へのしかかって、その鼻口から彼の頬にふうっと一陣の風でも吹きつけないかぎり彼は自分が書きものの行の中にいるのではなくて、往来の真中にいるのだとは気がつかなかったであろう。彼は家へ帰ると早速、食卓につき、大急ぎでおきまりのシチューをすすり、たまねぎを添えた一切れの牛肉をたいらげるが、味加減などには一切無頓着で、蠅であろうが何であろうが、その際食物に付着している物は一緒に食ってしまうのである。胃袋がくちくなりはじめたなと気がつくと、彼は食卓を離れて、墨汁の入った壺を取り出して、家へ持ち帰った書類を書き写しにかかるのである。もし、そういったものの無い場合には、自分の楽しみだけに、わざわざ自分のために写本をつくる。それも、その書類の文体がきれいだからというよりは、誰か新しい人物なり、身分の高いお歴々に宛てられたものだと特にそれを選ぶのであった。
ペテルブルグの灰いろの空がまったく色褪せて、すべての役人連中が貰っている給料なり、めいめいの嗜好なりに従って、分相応の食事をたらふくつめこんだり、また誰も彼もが役所でのペンの軋みや、あくせくたる奔命や、自分のばかりか他人ののっぴきならぬ執務や、またおせっかいなてあいが自分から進んで引き受けるいろんな仕事の後で、ほっと一息いれている時――役人たちがいそいそとして残りの時間を享楽に捧げようとして、気の利いた男は劇場へかけつけ、ある者は街をうろうろしながら、女帽子の品定めに時を捧げ、夜会にゆく者は小さな官吏社会の明星であるどこかの
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