は、男のやうなその手で、彼の房髪《チューブ》をひつ掴んで毎日々々引つぱりまはしたといふだけで、ほかにどういふ手段を用ゐたでもなしに、その男をば、人間といふよりは寧ろ黄金そのものとでも言ふべき優秀な人物に創りかへてしまつたものだ。彼女の背長《せたけ》はほとんど巨人のやうで、またそれに全くふさはしい肉つきと腕力とをそなへてゐた。天が彼女に、ふだんは焦茶いろの細かい襞《ひだ》をとつた婦人服《カポート》を身に著け、復活祭と自分の命名日《なづけび》には赤いカシミヤのショールを纒ふやうに運命づけたのは、大きなあやまりであつた。彼女にはむしろ、竜騎兵式の口髭と、長い騎兵靴とが何よりもふさはしかつたのだ。そのかはり、彼女のすることなすことは、一々その外貌にまつたく似つかはしく、舟を漕がせれば、どんな猟師もかなはないくらゐ巧みに櫂をあやつるし、野禽《とり》も射てば、草刈人夫も厳重に見張る。瓜畠の甜瓜の数は一つのこらず憶えてゐる。うちの堰堤《つつみ》の上をとほる荷馬車からは五|哥《カペイカ》づつの通行税を取る。木登りをして梨を揺り落す。油を売る懶け者の奉公人を、その怖ろしい手で打擲もするが、よく働らく者には、やはり同じいかつい手でウォツカを一杯もつて来てやる。彼女はほとんど同時に、小言もいへば絲も染める、台所へも飛んでゆく、濁麦酒《クワス》を拵らへる、蜂蜜のジャムを煮るで、まる一日ぢゆうかけ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、何処ひとところとして顔出しをせぬ処がない。その結果、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの、この小さな所有農園
 もちむら》は、最近の人口調査によれば十八人の農奴から成り立つてゐたが、まつたく文字どほりに繁栄してゐた。そのうへ、かの女は熱烈に甥を愛するのあまり、彼のために営々辛苦して、零砕な金まで貯蓄してゐた。
 故郷へ帰ると同時にイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの生活はがらりと一変して、それまでとは全く別個の軌道をとつて進んだ。恰かも彼は生まれながらにして十八人の農奴の村を監理するためにつくられてゐるかの観があつた。当の叔母も、まだ家政の全般に亘つては彼に手出をさせなかつたけれど、ゆくゆくはこの甥が申し分のない一家の主人《あるじ》になるに違ひないと信じてゐた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あれは、まだまだ若い小僧つ子だもの!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼女はイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチがもう四十の声をきくのに間もない歳であつたにも拘らず、いつも、かう言ひ言ひした――※[#始め二重括弧、1−2−54]何ひとつ、あれにわかつてゐるものか!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 だが、彼はいつも欠かさず、麦刈の人夫について野良へも出た。それがまた、彼の温良な魂に何ともいへぬ歓びを与へた。十挺から、それ以上もの、ピカピカ光る大鎌の一致した動き、整然と列になつて倒れる草の音、或は友に逢へるが如く喜ばしげに、或は別離の如く悲しげに、相間々々に歌ひ出される刈手の唄、静かな明朗な夕べ――それがまた、何といふ夕べだらう! 何と奔放で、すがすがしい大気だらう! その時、万象《ものみな》がよみがへる。曠野は赤みを帯び、青みを帯び、様々の色に照り映える。鶉や、鴇《のがん》や、鴎や、さては、螽※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]《きりぎりす》など無数の虫どもが、とりどりの声をあげて鳴き出し、はからずも渾然たる合奏をなして、何れもが束の間も休まうとしない。陽は落ちて地平の彼方に隠れる。おお! その爽やかさ、快よさ! 野良には、此処かしこに焚火の火が燃え、鍋がかけられて、それをとりかこんで髭もじやの刈手どもが坐つてゐる。水団《すゐとん》の湯気が漂ふ。たそがれの色は灰いろを帯びて来る……。さうした折、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが、どんな好い気持になつたかは、口では言ひ表はすことも難かしいくらゐだ。彼は刈手たちの仲間いりをして大好物の水団を賞味するのも忘れて、じつとひとつ処に立ちつくしたまま、空の彼方に消えゆく鴎を見おくつたり、野良につらなる、刈り取られた麦の堆積《やま》を数へたりしてゐるのであつた。
 程なく、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、到るところで偉い旦那だと取り沙汰されるやうになつた。叔母さんは自分の甥が自慢で自慢で堪らず、何かといへば彼のことを吹聴せずにはゐなかつた。或る日――それは、もう収穫《とりいれ》の終りころで、たしか七月の末のことだつた――ワシリーサ・カシュパーロヴナは、さもおほぎやうな顔つきで、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ
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