ほど、その顔に、脂汗がにじみ出して来るのであつた。
 いつもより早目に彼は寝床へ入つたが、どんなに眠らうとしても、寐つくことが出来なかつた。しかし、やがてのことに、待ちに待つた、あの万人に共通な慰藉である睡魔が彼を訪れた。だが何といふ奇妙な夢を見たことだらう! 彼は未だかつてこれほど辻褄の合はぬ夢を見たことがなかつた。見ると、ぐるりがガヤガヤとざはめき、グルグル※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてをり、彼自身は力かぎり根かぎり一散に駈けてゐるのだ……。ところが、もうどうにも根がつづかなくなつてしまふ。と、突然、誰かが彼の耳をつかまへる。※[#始め二重括弧、1−2−54]おい、誰だ?※[#終わり二重括弧、1−2−55]――※[#始め二重括弧、1−2−54]あたしよ、あなたの妻よ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さういふ声がざはめきの中から彼に答へた。そして不意に彼は夢から覚めた。と、今度はもう彼は妻帯してゐるのだが、彼等の家の中は実に奇妙なのだ。彼の部屋には一人用の寝台ではなく二人用の寝台があつて、椅子には妻がかけてゐる。彼には実に変てこで、どうして妻の傍へ行つたものか、何といつて彼女に話しかけたものか、さつぱり分らない。よく見ると、妻の顔が鵞鳥の顔をしてゐる。傍らを見ると、もう一人の妻がゐて、やつぱり鵞鳥の顔をしてゐる。また反対側を見ると、そこにも妻が立つてゐる。うしろを向くと、そこにも妻が一人ゐる。そこで彼はすつかりおびえあがつてしまひ、一目散に庭へ駈け出した。ところが、庭は蒸暑いので帽子を脱ぐと、帽子の中にも妻が一人坐つてゐる。汗がタラタラと顔を流れる。ハンカチを取り出さうとしてポケットへ手を突つ込むと、そのポケットの中にも妻がゐる。耳に詰めてあつた綿を取ると、そこにも妻が坐つてゐる……。そこで不意に、彼は片足でピョンとはねあがつた。すると、叔母さんが彼を見ながら、真面目くさつた顔つきで、※[#始め二重括弧、1−2−54]さうさう、はねあがらなきや駄目だよ。今ぢや、お前さんはもう女房持ちだから。※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ。彼が傍へ近寄つて見ると、叔母さんだと思つたのが、もう叔母さんではなく、鐘楼になつてゐる。そして気がつくと、誰かが彼を綱でその鐘楼へ釣りあげようとしてゐる。※[#始め二重括弧、1−2−54]誰だ、俺を釣りあげようとし
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