ディカーニカ近郷夜話 後篇
VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI
怖ろしき復讐
STRASHNAYA MESTI
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli
平井肇訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)峡《はざま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)哥薩克|男子《をのこ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「金+拔のつくり」、第3水準1−93−6]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)徐々《しづ/\》と

*:訳注記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)苦業僧*ワルフォロメイ聖者から
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      一

 キエフの街はづれで、わいわいと騒々しい物音が聞えてゐる。それは哥薩克の大尉、ゴロベーツィが、息子の婚礼の祝宴を張つてゐるのであつた。大尉の邸へは夥しい来客が詰めかけてゐた。昔は何かといへば鱈腹つめこんだものだ。鱈腹つめこむといふよりは、うんと飲んだものだ。うんと飲むといふよりは、羽目を外してドンチャン騒ぎをやつたものだ。ザポロージェ人のミキートカも栗毛の駒に跨がつて、七日七夜のあひだ、波蘭王麾下の貴族たちに血汐の酒の大盤振舞をやつたペレシュリャーイが原から、まつすぐに乗り込んで来た。また、大尉とは義兄弟の契りを結んでゐるダニーロ・ブルリバーシュも、ドニェープルの対岸の、山と山との峡《はざま》にある領地から若い妻のカテリーナと当歳の息子を伴れてやつて来た。客人たちはカテリーナ夫人の雪を欺くやうな顔や、独逸天鵞絨のやうに黒々とした彼女の眉毛や、凝つた上衣《スクニャア》や、浅葱《あさぎ》の古代絹の下袴《ペチコート》や、銀の踵鉄《そこがね》を打つた長靴の素晴らしさに度胆を抜かれたが、それにもまして、彼女の老父がいつしよに来なかつたことを奇異に思つた。その老人が、ドニェープルの対岸に住むやうになつたのは、やつとここ一年ほどのことで、それまでの二十一年間といふものは、全く行方不明になつてゐた。それがやうやく我が娘《こ》の許へ帰つて来た時には、娘はもう嫁入りをして、一人の男の子の母となつてゐた。その老人が来てゐたなら定めし様々の珍らしい物語をして聴かせたことだらう。まつたく、そんなに永らく異端の地で暮したものに、珍らしい話のない筈はない! あちらでは何もかもが異つてゐる。住民もまるで異へば、基督の会堂といふものもない……。だが、しかしその老人はやつて来なかつた。
 客の前へは、乾葡萄と梅の実の入つた混成酒《ワレヌーハ》や、大きな皿にのせた婚礼麺麭《コロワーイ》が運ばれた。楽師どもは暫し音楽をやめ、鐃※[#「金+拔のつくり」、第3水準1−93−6]《ツィンバルイ》や提琴や羯鼓をかたへに置いて、貨幣の焼き込んである婚礼麺麭《コロワーイ》の底を熱心に探つた。一方、新造や娘たちは刺繍《ぬひ》のある手布《ハンカチ》で口ばたを拭つて、再び自分たちの列から前へ進み出た。すると若者どもは両脇に手をかつて、誇りかにあたりへ眼を配りながら、まさに彼女たちを迎へて踊り出さうとした――丁度その時、新郎新婦を祝福するために老大尉が二つの聖像を捧げて現はれた。その二つの聖像は高徳の誉れ高い苦業僧*ワルフォロメイ聖者から授けられたものであつた。それには何らきらびやかな飾りもなく、金銀の燦やきとてはなかつたが、それを我が家に祠る者に対しては、如何なる悪霊も危害を加へることが出来なかつた。今しもその聖像を高くかざしながら、大尉が短かい祈祷をのべようとした、ちやうどその時……地べたに遊び戯れてゐた子供たちが、不意に怯えて、わつと泣き出した。それに次いで、群集がたじたじと後ずさりをしながら、怖れおののいて、一同のまんなかに立つてゐる一人の哥薩克を指さした。それがいつたい何人なのか、誰ひとり知る者がなかつた。だが先刻、哥薩克踊《カザチョーク》を一番、ものの見事に踊つてのけて、自分のぐるりの群衆に何か冗談口を叩いて哄笑を買つた男である。大尉が聖像をさしあげると同時に、突然その哥薩克の顔つきは一変して、鼻が見る見る伸びて一方へ曲り、それまで鳶いろであつた両の眼は俄かに緑いろに変じて、かつと飛びだし、唇はあをざめ、頤がブルブルふるへだすと、まるで矛のさきのやうにとんがり、口からは牙がにゆつと露はれ、頭には瘤が盛りあがつて、その哥薩克はまるで老人の姿に変つてしまつた。
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ワルフォロメイ聖者 基督の十二使徒の一人、(バルトロマイ)。
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「彼奴だ! 彼奴だ!」さういふ叫び声が、互ひにぴつたり躯《からだ》を擦り寄せるやうにした群衆のあひだから聞えた。
「*魔法使《コルドゥーン》がまた現はれたのだよ!」さう叫んで、母親たちは我が児の手をしかと掴んだ。
 大尉は厳かに威儀を正して前へ進み出ると、魔法使《コルドゥーン》の面前に聖像をかざしながら、凛然たる声で言ひ放つた。『消え失せい、悪魔《サタン》の姿め! ここは汝《うぬ》のをるべき場所ではないぞ!』すると怪しい老人は無念さうに呻いて、狼のやうに歯を噛みならしながら、姿を消した。
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魔法使《コルドゥーン》 悪魔と交通して妖術を体得した人間。
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 がやがやと、まるで暴風《あらし》の海のやうに、いろいろの取沙汰や論議が人々の間に持ちあがつた。
「いつたい、その魔法使《コルドゥーン》といふのは何だね?」と、若い連中や、これまでそんなものに出会つたことのない手あひが口々に訊ねた。
「災難が来るだよ!」と老人連は首を振りながら言つた。そして広い大尉邸の中では到るところ、そこここに、五人七人と屯して、人々がこの奇怪な魔法使《コルドゥーン》の物語に聴き入つた。だが、どの話もまちまちで、それに就いては誰ひとり確かなことを語り得るものがなかつた。
 庭へ蜜酒《ミョード》の桶や、幾樽もの希臘葡萄酒が持ち出された。一同は再び浮かれ出した。楽師たちはかまびすしく音楽を奏で、娘や新造や、派手な波蘭服《ジュパーン》を着た哥薩克たちは矢鱈無性に踊りまはつた。九十だの百だのといふ高齢の、よぼよぼした老爺たちまでが、あだには過さなかつた昔日の自慢話に花を咲かせながら、調子に乗つて踊り出した。うたげは深更までも続いたが、その酒宴は、今日みるやうな酒宴とは、てんで趣きを異にしてゐた。やがてお開きといふことになつたが、家へ帰るものはほんの僅かで、多くの者は居残つて、大尉の家の広い庭で夜を明かすことにした。哥薩克どもの大部分は勝手気儘に、腰掛の下へもぐつたり、床の上にころがつたり、馬の脇腹にすり寄つたり、家畜小屋に凭れたりして寝た。つまり酔ひ潰れた哥薩克はゆきあたりばつたりにところきらはず身を横たへて、キエフ全市に轟ろき渡るやうな大鼾きをかきだした始末である。

      二

 下界が静かに仄明るくなつたと思ふと、山蔭から月が姿を現はした。恰かも高価なダマスクス産の雪白のモスリンを懸けたやうに、月光が山々の起伏したドニェープルの沿岸をつつむと、山蔭はひときは遠く松柏の森の方へ遠退いた。
 ドニェープルの中流に一艘の独木舟《まるきぶね》が浮かんでゐる。舳先には二人の小者が坐つてをる。彼等は黒い哥薩克帽を片下りにかぶつて、櫂の先きで、燧鉄《うちがね》から散る火花のやうな飛沫を四方へ跳ねあげてゐる。
 何故この哥薩克どもは歌を唄はないのだらう? 彼等はとうに加特力僧《クションヅ》どもがウクライナの地へ侵入して、哥薩克の民を加特力に改宗させつつあることも、二日にわたり、*塩水湖《サリョーノエ・オーゼロ》附近で韃靼の軍勢が干戈を交へたことも口にしなかつた。どうして彼等に歌を唄つたり、勇ましい軍談《いくさばなし》に花を咲かせたりすることが出来よう。彼等の主《しゆう》ダニーロは、じつと物思ひに沈み、その緋色のジュパーンの袖が独木舟の縁から下へ垂れて水をしやくつてをり、また彼等の女主人《をんなあるじ》カテリーナは静かにわが児を揺ぶりながら、良人の顔からじつと眼を放さずにゐるが、彼女の、表布《おもてぬの》をきせぬ粋《いき》な羅紗服《スクニャア》には灰色の塵のやうに水玉が跳ねかかつてゐる。
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塩水湖《サリョーノエ・オーゼロ》 黒海沿岸の湖で、水に多量の塩分を含むところから、この名がある。
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 ドニェープルの只中から望む、高い山々や、広々とした草地や、緑の森の眺めはまことに美しい! その山は、山に見えない。それには山麓といふものがなく、下部《した》も、上部《うへ》と同じく嶮峻な峰であり、その上方にも下方にも高く空が展がつてゐる。丘の上にある森も、森ではない。それは森の大入道の尨毛の頭に生えた髪の毛だ。その首の下部《した》には頤鬚《あごひげ》が水に洗はれてをり、頤鬚《あごひげ》の下も、頭髪《かみのけ》の上も高い青空だ。また草原も、草原ではなく、それはまんまるな空の中腹をとりまく緑の帯で、上の空にも下の空にも、それぞれ月がかかつてゐる。
 ダニーロは辺りには眼もくれず、自分の若い妻をじつと眺めてゐた。「いとしい妻、カテリーナ、お前は何をふさぎ込んでゐるのだ?」
「まあ、ダニーロ、あたしふさぎ込んでなぞゐませんわ! あたしは、あの不思議な魔法使《コルドゥーン》の話にすつかり脅かされてしまひましたの。あれは生まれるとから、あんな怖ろしい姿をしてゐて……子供たちも幼い頃から一緒に遊ぶのを嫌つたといふではありませんか。ね、あなた、まあ何て怖い話でせう、彼にはしよつちゆう、人が自分を嘲けつてゐるやうに思へるらしいんですつてね。暗い夜、誰かに出会つたりすると、彼にはその人が大口をあき、歯を剥き出して嘲笑つてゐるやうに思はれるのですつて。そして翌る日には、屹度その人は死骸になつて発見されるのですつてね。あたしその話を聞いた時、ほんとに不思議な、怖ろしい思ひがいたしましたわ。」
 かう語りながら、カテリーナは手巾《ハンカチ》を取り出して、自分の腕に眠つてゐる我が子の顔を拭つた。その手巾には彼女の手づから紅い絹絲で木の葉と木実《このみ》が刺繍《ぬひと》つてあつた。
 ダニーロは何の応へもせず、一方の、遠く森のうしろから土塁が黒々とつづいて、その向ふに古い城塞の聳えてゐる闇の中へ眼を凝らしはじめた。と、彼の眉の上には三本の皺が一時に刻まれた。その手は雄々しい口髭を撫でてゐる。「魔法使《コルドゥーン》が、何もそれほど怖しいのではない。」と彼は呟やくのだつた。「奴がもし敵の間者《まはしもの》だつたら大変なのだ。いつたいどうして奴はこの辺をうろつく気になりをつたのだらう? 波蘭人どもが、われわれとザポロージェ人との連絡を断つために、砦《とりで》を築く計画を立ててをるといふ情報も入つてゐる。もしそれが事実であつたなら……。どこかに奴の巣窟があるといふ評判でも聞えたなら、おれがその魔窟を蹴散らして呉れるわ。あの魔法使《コルドゥーン》の古狸めを焼き殺して、鴉にもついばませることぢやないぞ。だが、奴は必らず金銀財宝を貯へてゐるに違ひない。そら、あの悪魔が巣くふところは彼処《あすこ》だ! 奴めが金銀を貯へてをるとすると……。もうぢき十字架の傍を通りすぎる筈だが――あれは墓場だ! あの下で奴の穢れた先祖どもが腐つてをるのだ。なんでも、彼奴の先祖は、どいつもこいつも僅かな端た銭のために、霊魂とぼろくそなジュパーン諸共、平気で、おのれを悪魔に売り渡したといふことだ。果して彼奴が黄金を貯へてをるとすれば、もはや一刻も猶予すべきではないぞ――戦争をしてもいつも儲かる時ばかりはないのだから……。」
「まあ、あなたが何を企らんでいらつしやるのか、あたし存じてをります
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