は痛く心を打たれずにはゐられなかつた。もう、すつかり困憊しつくしたカテリーナは、自分ではゴルリッツァを踊つてゐるつもりでも、懶《ものう》げにひとつところで足踏をしてゐるだけであつた。
「若い衆さん、そら、あたし頸飾を掛けてるでしよ!」と、やがて彼女は踊りをやめて言つた。「でも、あんた達には、ないのね!……うちのひとは何処にゐて?」彼女は不意に帯の間から土耳古製の短劔を取り出しながら叫んだ。「ああ、この刀では駄目よ。」かういふと同時に、涙をはらはらとこぼし、顔には悲哀の色を浮かべて、「あたしの父の心臓はとても深くて、こんな短劔では刺しとほすことも出来ないわ。それにあの人の心臓は鉄で出来てゐるの、あの妖女《ウェーヂマ》が地獄の火で打つてやつたのさ。どうしてお父さんは来ないんだらう? もう疾《とう》に殺される時なのに、それを知らないのかしら。こちらから出かけて行くのを、待つてるのかも……」かう、言ひ終へないで、彼女は妙な笑ひ声を立てた。「わたし、とても面白い物語《おはなし》を思ひ出したわ。あたし、良人《うちのひと》が埋められた時のことを思ひ出したの。だつて、彼《あのひと》は生きたままで埋められたのぢやなくつて……。なんて、をかしなことでせう!……さあ、お聴きなさい!」さう言つて、彼女は言葉を歌に代へて唄ひ出した。

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血みどろの馬車が飛んでゆく。
馬車の中には弾丸《たま》に射ぬかれ、
劒で刺された哥薩克が横たはり、
右手に投槍を握つてゐる。
投槍からは血潮が滴たり、
血潮の川が流れてる。
川の上には篠懸があり、
篠懸の上で鴉が鳴く。
哥薩克を見送りながら母親も泣く。
泣くな、歎くな、母親よ!
お前の息子は嫁を取つた、
可愛い姫君を嫁に取つた。
美しい野原の地窖《つちあな》は、
扉もなければ窓もない。
歌はこれでおしまひ。
魚が蝦と踊つたとさ……
あたしを嫌ふ人の母さんは
顫へあがるがいい!
[#ここで字下げ終わり]

 こんな風に、彼女の歌にはあらゆる歌が混り合つてゐた。もう二日のあひだ、彼女は自分の家で寝起をしてゐたが、キエフのことを耳にするのを嫌ひ、祈祷もせず、人を避けて、朝から夜おそくまで暗い密林の中を彷徨してゐるのだつた。尖つた小枝が白い顔や肩を掻きむしり、風が髻《もとどり》の解けた髪を吹きさらして、秋の落葉が足の下でガサガサ鳴るが――彼女はあらぬ方を見据ゑてゐるのだ。夕映が消えて、まだ星も見えず、月もなく、森をとほるに怖い時刻で、樹々に身を擦り小枝を掻き分けながら、洗礼を受けずに死んだ子供たちが、泣いたり笑つたりして、道や広い蕁麻《いらくさ》の茂みの中を玉のやうに転がつてゆく。ドニェープルの波の間からは、身投げをして死んだ娘たちが、列をなして浮かび出る。青い髪はおどろに両の肩へふりかかり、滴くがぽたぽたとその長い髪をつたつて地上へ落ちる。処女《をとめ》は水に濡れて、まるで硝子の肌着を著けたやうに光つてゐる。唇には怪しげな微笑が宿り、頬は情熱に燃えて、両の眼が人の心をそそる……こんな娘から恋をしかけられ、接吻をされたなら……。早く逃げよ、洗礼を受けた人たち! 彼女の唇は氷で、寝床は冷たい水中だ。彼女は君を擽《くすぐ》つて河の中へ引き込むぞ。だが、カテリーナの眼には何も映らなかつたし、正気でない彼女には水精《ルサルカ》など怖くはなかつた。彼女は夜更まで、刀を握つたまま、父を捜して駈けまはつた。
 或る朝はやく、赤い波蘭服《ジュパーン》を著た、堂々たる恰幅の客が訪ねて来て、ダニーロの安否を問うた。一部始終を聴くと、彼は泣き腫した眼を袖で拭きながら、肩を窄《すぼ》めた。聞けば彼は、亡きブルリバーシュの戦友で、二人は共にクリミヤ人や土耳古人と戦つたとのこと。ダニーロがそんな果ない最期を遂げようとは夢にも思はなかつたといつて残念がるのだ。客はなほその他、さまざまなことを物語つてから、カテリーナに会ひたいと言ひ出した。
 カテリーナは初めのうち、その客のいふことを少しも耳に入れなかつたが、しまひには分別あり気に、客の話に聴き入つた。彼は、ダニーロと兄弟同様に暮したことや、一度などはクリミヤ人に追はれて、叢林《くさむら》の中へ二人で隠れてゐたことがあるなどと語つた……。カテリーナは、ただじつと聴き耳を立てながら、その男から眼を離さなかつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]奥さんは正気に返つたぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼女の顔を見ながら、郎党どもは心の中に思つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あの客人が奥さんを癒して呉れるに違ひない! 奥さんは、もうすつかり正気のやうに聴き入つてゐるではないか!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 そのうちに客は、嘗てダニーロが打ち明け話をした序でに彼に向つ
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