ど、そこへ入るにはどうしたものか? 遠くから鎖の鳴る音と、犬の駈ける気配が聞える。
「俺は何をぐづぐづ考へてゐるのだ?」とダニーロが、その窓の前にある高い樫の樹を見あげながら言つた。「これ、お主はここに待つてゐろよ! 俺はこの樫の樹へのぼるのだ、ちやうど、まともにあの窓を覗きこむことが出来さうだから。」
 そこで彼は帯を解き、音のしないやうに長劔を下におろして、枝に手を掛けると、するすると木へ登つて行つた。窓はやはりまだ明るかつた。窓の間近の木の股に腰を据ゑ、片手で幹につかまつたまま、そつと覗くと、部屋の内には別に灯火《ともしび》があるわけではないのに、それでゐて明るい。壁には奇怪な符号が描いてあり、甲冑が懸けてある。それはどれもこれも、基督教徒や愛すべき瑞典人といふに及ばず、土耳古人もクリミヤ人も、波蘭人さへ用ゐない、まつたく異様な品である。天井の下を前後に蝙蝠がひらひらと飛翔して、その影が壁や扉や床にゆらゆらと落ちる。ふと、扉が音もなく開いた。誰か赤いジュパーンを纒つた人間が入つて来て、つかつかと白い卓布を掛けた卓子に近づいた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]やつぱり親爺だ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]ダニーロは少し首をすくめて、ぴつたりと幹に躯《からだ》をすり寄せた。
 しかし舅には、窓の外から人が覗いてゐようなどと心を配る余裕はなかつた。彼は陰気な、不機嫌さうな顔をして、いきなりその卓子から卓布を剥ぎ取つた――と、急に、音もなく部屋ぢゆうに透明な空いろの光りが漲《みなぎ》りわたつた。そして蒼ざめた前の金いろの光りはそれと融《と》けあはずに、ゆらゆらと、さながら青い海底へ沈むようにたゆたひながら、あたかも大理石の波紋のやうな層を形づくつた。そこで彼は卓子の上に一つの壺を置いて、その中へ何か、草のやうなものを投げ込んだ。
 ダニーロはじつとそれを見まもつたが、気がつくと、その男はもう、赤いジュパーンを著てゐるのではなく、そのかはりに土耳古人が穿いてゐるやうなだぶだぶの寛袴《シャロワールイ》を穿き、帯には拳銃を吊り、頭には一種異様な、一面に露西亜文字とも波蘭文字ともつかぬ文字で書き埋めた帽子を冠つてゐた。じつと顔を見つめてゐると、その顔の容子が変りだした。鼻がによきによきと伸びて口の上へ垂れ下り、口は見る見る耳の根もとまで裂け、牙が一本にゆつと露はれて
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